彼岸の甘露
った症状があったらしく、何かの病か憑きものかと大騒ぎだったそうだ。
昔から何か変なものでも視えてるんじゃないかって言われてたでしょ?いつかこうなるんじゃないかって思ってたのよ。あんたもいつまでもやくざな仕事続けてないでそろそろ家に戻ったら―――電話を切る。お互いどうしても歩み寄れないのだから、話しても無駄だ。
その日はもう何をする気にもなれず、縁側に寝転び、昼寝と決め込む。
猫の額ほどの庭にある椿の茂みを見やり、蛍のことを思った。綻び始めた蕾は、もうすぐ咲くだろう。夢の中でも楽しみにしていたくらいなのに、残念だ。あと二、三日もすれば見せてやれたのに。
従妹の病を哀れむ言葉は、自分でも驚くほど空々しく響く。
私という生き物にとっては、現実的というものは空虚で、空想的な思考こそが真に迫るのだ。己の天邪鬼な性質に苦笑し、現実的思考を紡いだ私に私は否定を返す。
―――その必要はない。あちらにも椿はあるのだから。
* *
赤の咲き乱れる庭。
大きな屋敷。
縁側で戯れる銀色の麗人と、少女の笑い声。
男の腕に抱かれた蛍は、白無垢めいた単衣を制服のの上に羽織っていた。
長い三ツ編みの片方はほどかれている。流れる黒を長い指に梳かれ、撫でられた猫の表情をした蛍は、もう片方の結い紐を解いた。
男は笑っている。
蛍もまた、笑っている。
子供のように無邪気で、親鳥のように優しく、そして餌を捕らえた蜘蛛のようにおぞましい――無垢も欲も孕んだそれは――恋人同士の交わす密やかな微笑だった。
耳に囁かれたのは睦言か、少女は恍惚を頬に浮かべる。
――私は蛍ですもの。
――こっちの水は甘いぞと言われたら、ふらふらと惹かれてしまうのです。
男に聞かせているのか、私に聞かせているのか。わからないままに、耳を傾ける。……彼女の『お話』は、いつだって好ましいものなのだから。
――出されたものを食べるということは、そのひとに迎え入れらるということ。
――私は彼に招かれ、それを受け入れました。
蛍の言葉に頷いてみせ、納得を示す。あちら側の食べ物を食べた少女は、神話のしきたりに従って庭の主に嫁したのだ。白い単衣は花嫁衣裳。持参金は現世での生。世間には妄言と馬鹿にされるだろうが、それが当然の結末のように思えた。
私の首肯に喜び、蛍はこちらを向く。それに妬いた白い手が、頬を包んですぐに引き戻してしまったが。
――そして、私は兄さんの家の食べ物を頂きました。
彼女の言いたいことがわからず、首を傾げる。
あちら側の食べ物を口にしたら、そこに縛られる。だから、蛍はここにいるのだ。それはわかっている。
では、こちら側の―――いや、あちら側にとっては、私の場所こそ『あちら側』になるのか。
あちら側の食べ物を口にしたら、そこに縛られる。繋がりを持つ。
そうか、
つまり、蛍が言おうとしているのは、
――惣一兄さん、椿が咲きましたよ。
* *
目が覚めた。
起き上がると、冷たい外気が体のあちこちに入り込む。どうやら、すっかり寝入ってしまったようだ。
落ちかかる夕日を眺め、乱れた衣服を直す。
一向に冴えない頭を揺らし、ふと茂みを見やると――、
椿の花が一輪、花開いていた。
――こんにちは、惣一兄さん。
――今日もお話、聞いてくれますか?
少女の唇に似た、赤の椿が囁く。
どこからか、彼岸の甘露の香りがした。