彼岸の甘露
従妹の蛍が訪ねてきた。
「こんにちは、惣一兄さん」
記憶より大人びた声が私を呼ぶ。見慣れぬ制服を着た少女と会うのは、実に三年ぶりだった。
昔はよく遊び相手をしていたのだが、親の反対を押し切り物書きになって以来、実家からは勘当同然の扱いである。当然、親戚付き合いも途絶えていた。
「今日は、お話したいことがあるんです」
―――惣一兄さん、今日もお話聞いてくれる?
いつかのやりとりを思い出し、懐かしさを感じる。
そうだ、大人しそうな外見に反して、蛍はいつも私に聞き役をすることをねだる子だった。私も彼女の浮世離れした感性を好ましく思っていたので、喜んでその役を引き受けたものだった……。
「兎も角中に入りなさい。もう風も冷たいだろう」
声をかけると、蛍は行儀よくお邪魔します、と言って玄関に上がった。揃えられた靴を見て、彼女が行儀の良い子供だったことを思い出す。
懐かしいような、見慣れぬような不思議な気持ちで、踏むたびに鳴く廊下を二人歩いた。
「少し待っていなさい」
ささやかな客間に通し、茶でも入れてこようと台所に向かう。
幸い湯を沸かしている間に隣の奥さんから貰った栗饅頭が見つかった。小ぶりで可愛らしい形のそれは、年頃の少女をもてなすのに及第点ではあるだろう。西洋菓子でもあればよかったのだが。
盆を持って客間に戻ると、お下げ髪の少女は正座して待っていた。おずおずと頭を下げられると、なんだか落ち着かない。中身はあの蛍であるはずなのに、どうもこの年頃の少女の形をしていると扱いに困ってしまう。
「ありがとうございます。……突然お邪魔したのに」
茶と茶菓子を置くと、蛍は申し訳ないとばかりに目を伏せる。こうも畏まられると何と声をかければいいのかわからず、そもそも気の利いたことを言える性分ではない私は、迷った末に彼女の用を促すことにした。
「……話してごらん。今日は何のお話だい?」
まるで昨日の続きを聞くように、空白などなかったように私は尋ねる。
それにこくりと頷き、蛍は昔話を語るような調子で語り始めた。
「夢を見るのです」
* *
そこは美しい庭なのです。
可憐な松葉牡丹に千日紅、素朴な鳳仙花、燃えるよう鶏頭。そして、恐ろしく赤い彼岸花。私にわかるのはもうそれくらいで、名も知らぬ赤が庭には咲き乱れています。
私の好きな椿はまだ咲きません。茂みの中の蕾が花開くのを、私は今か今かと心待ちにしているのです。
そこには、うつくしいひとが居ます。
雨上がりのように濃い、金木犀の香を纏わせたそのひとは、空色の目をしています。
いいえ?水色のことではありません。
朝にも夕にも夜にも、なるのです。移り変わるのです。
まばたきの間に、薄青に橙に黒に。
その瞳を、星のように綺羅綺羅しい銀の睫が縁取っていて、その眼差しだけで一つの芸術品です。
同じ色の御髪が短いことが、ひどく残念でなりません。長ければ、結わせてほしいとねだれるのですが。
―――言葉などで表現しては勿体無いですね。もう止めにします。
私が来るときはいつも、彼はお屋敷の縁側に腰掛けています。屋敷には入れない決まりのようで、私と彼はいつも庭で過ごします。散歩をしたり、お話したり、疲れたら縁側に腰掛けます。子供の頃に夢中になった類の遊び――あやとりだとか、カルタだとか、けんだまだとか――に没頭することもあります。
* *
「……佳い夢だ」
美しいものばかりの甘美な夢。私の見る夢は、ほとんどが奇妙なものか、悪夢ばかりなので羨ましく思う。できれば麗人の役は美女に代わってほしいが。
「兄さんなら、そう言ってくれると思いました」
そう言いながらも、蛍は目に見えてほっとした顔をする。
――そうだった。なぜ、蛍は私にばかり話をしたがったのか。それは、両親も、同世代の子供たちも、彼女の愛する夢想を理解しなかったからだ。
大人しいが、意味のわからないことばかり言う子供。蛍に対する周囲の評価はそのようなものだった。
昔から不可思議な物語を愛好していた私にとっては、彼女の語る夢想と現実を織り交ぜた『お話』は興味深いもので、また過去に覚えがあるものでもあった。私たちは同じものが好きだったのだ。
でも、今もそうかはわからない。そう、彼女は思っていたのかもしれない。三年の空白に緊張していたのは私だけではなかったのだ。
「お菓子、いただきますね」
楊枝で栗饅頭を半分に割り、一片ずつ口に運ぶ。確かに躾に厳しい家だったが、ずいぶん上品に育ったものだ。手持ち無沙汰になり、私も自分の茶をすする。少し温かった。
また注いでこようと腰を上げると、蛍は待って、と少し幼い口調で声を上げる。
「あと少しだけ、続きがあるのです」
* *
ある日彼は言いました。ザクロが実った、と。
庭に一つだけあるザクロの木から、彼は実をもぎました。
白い指が果皮を割り、中の赤い実を摘んで―――
私の口元に、差し出しました。
* *
その時を思い出したのか、少女は少し頬を赤らめる。
私はその果実のような赤らみに、言い知れない不安を覚えた。
―――あちら側の食べ物。
黄泉の食べ物を食し、現世に戻れなくなった国産みの女神。
勧められた果実を食したために、死人の国の王に嫁ぐことになった女神の娘。
現世に帰れなくなったモノたちの神話が、頭によぎる。これらの示す教訓……否、警告は、ただ一つだ。
戻りたいのなら、あちら側の食べ物は食べてはいけない。
……自分は何を考えてるのだろう。これは、夢の話だ。自分の真剣さに苦笑する。思えば、昔から真に迫った話し方をする子だった。私などより、よっぽど作家に向いている。
それでも、差し出された果実が彼女に拒絶されることを願った。
しかしそれが叶えられるはずがなく、蛍は予想のままに言葉を紡ぐ。
「私はザクロを食べてしまいました」
当然の言葉だった。私もそうするだろう。
私たちのような人種は――あちら側の甘露に、抗えなどしないのだ。
「出されたものを食べるということは、そのひとに迎え入れらるということ」
蛍の視線が、茶菓子の乗っていた皿を撫でる。こちら側の食べ物もまた、彼女は食した。それならば―――
「なので、兄さんともまたいつか」
その先の言葉はなかった。
少女は、糸が切れた人形のように倒れる。
「……蛍!」
抱き起こした少女の頬は、眠り姫のように薔薇色で。
安らぎと喜びに満ちた吐息をこぼしていた。
* *
あれから、蛍からも、蛍の家族からも連絡が来ない。
ついに辛抱できなくなり、私は、数年ぶりに実家に電話をかけた。
蛍はどうなったのか。
それだけを告げると、母は呆れた様子で小言を一つ二つ呟き、急に声をひそめた。
私の家で倒れてから、一週間後―――蛍は完全に目覚めなくなった、と。
聞くと、少し前からことりと眠り込んでは半日以上目覚めない、とい
「こんにちは、惣一兄さん」
記憶より大人びた声が私を呼ぶ。見慣れぬ制服を着た少女と会うのは、実に三年ぶりだった。
昔はよく遊び相手をしていたのだが、親の反対を押し切り物書きになって以来、実家からは勘当同然の扱いである。当然、親戚付き合いも途絶えていた。
「今日は、お話したいことがあるんです」
―――惣一兄さん、今日もお話聞いてくれる?
いつかのやりとりを思い出し、懐かしさを感じる。
そうだ、大人しそうな外見に反して、蛍はいつも私に聞き役をすることをねだる子だった。私も彼女の浮世離れした感性を好ましく思っていたので、喜んでその役を引き受けたものだった……。
「兎も角中に入りなさい。もう風も冷たいだろう」
声をかけると、蛍は行儀よくお邪魔します、と言って玄関に上がった。揃えられた靴を見て、彼女が行儀の良い子供だったことを思い出す。
懐かしいような、見慣れぬような不思議な気持ちで、踏むたびに鳴く廊下を二人歩いた。
「少し待っていなさい」
ささやかな客間に通し、茶でも入れてこようと台所に向かう。
幸い湯を沸かしている間に隣の奥さんから貰った栗饅頭が見つかった。小ぶりで可愛らしい形のそれは、年頃の少女をもてなすのに及第点ではあるだろう。西洋菓子でもあればよかったのだが。
盆を持って客間に戻ると、お下げ髪の少女は正座して待っていた。おずおずと頭を下げられると、なんだか落ち着かない。中身はあの蛍であるはずなのに、どうもこの年頃の少女の形をしていると扱いに困ってしまう。
「ありがとうございます。……突然お邪魔したのに」
茶と茶菓子を置くと、蛍は申し訳ないとばかりに目を伏せる。こうも畏まられると何と声をかければいいのかわからず、そもそも気の利いたことを言える性分ではない私は、迷った末に彼女の用を促すことにした。
「……話してごらん。今日は何のお話だい?」
まるで昨日の続きを聞くように、空白などなかったように私は尋ねる。
それにこくりと頷き、蛍は昔話を語るような調子で語り始めた。
「夢を見るのです」
* *
そこは美しい庭なのです。
可憐な松葉牡丹に千日紅、素朴な鳳仙花、燃えるよう鶏頭。そして、恐ろしく赤い彼岸花。私にわかるのはもうそれくらいで、名も知らぬ赤が庭には咲き乱れています。
私の好きな椿はまだ咲きません。茂みの中の蕾が花開くのを、私は今か今かと心待ちにしているのです。
そこには、うつくしいひとが居ます。
雨上がりのように濃い、金木犀の香を纏わせたそのひとは、空色の目をしています。
いいえ?水色のことではありません。
朝にも夕にも夜にも、なるのです。移り変わるのです。
まばたきの間に、薄青に橙に黒に。
その瞳を、星のように綺羅綺羅しい銀の睫が縁取っていて、その眼差しだけで一つの芸術品です。
同じ色の御髪が短いことが、ひどく残念でなりません。長ければ、結わせてほしいとねだれるのですが。
―――言葉などで表現しては勿体無いですね。もう止めにします。
私が来るときはいつも、彼はお屋敷の縁側に腰掛けています。屋敷には入れない決まりのようで、私と彼はいつも庭で過ごします。散歩をしたり、お話したり、疲れたら縁側に腰掛けます。子供の頃に夢中になった類の遊び――あやとりだとか、カルタだとか、けんだまだとか――に没頭することもあります。
* *
「……佳い夢だ」
美しいものばかりの甘美な夢。私の見る夢は、ほとんどが奇妙なものか、悪夢ばかりなので羨ましく思う。できれば麗人の役は美女に代わってほしいが。
「兄さんなら、そう言ってくれると思いました」
そう言いながらも、蛍は目に見えてほっとした顔をする。
――そうだった。なぜ、蛍は私にばかり話をしたがったのか。それは、両親も、同世代の子供たちも、彼女の愛する夢想を理解しなかったからだ。
大人しいが、意味のわからないことばかり言う子供。蛍に対する周囲の評価はそのようなものだった。
昔から不可思議な物語を愛好していた私にとっては、彼女の語る夢想と現実を織り交ぜた『お話』は興味深いもので、また過去に覚えがあるものでもあった。私たちは同じものが好きだったのだ。
でも、今もそうかはわからない。そう、彼女は思っていたのかもしれない。三年の空白に緊張していたのは私だけではなかったのだ。
「お菓子、いただきますね」
楊枝で栗饅頭を半分に割り、一片ずつ口に運ぶ。確かに躾に厳しい家だったが、ずいぶん上品に育ったものだ。手持ち無沙汰になり、私も自分の茶をすする。少し温かった。
また注いでこようと腰を上げると、蛍は待って、と少し幼い口調で声を上げる。
「あと少しだけ、続きがあるのです」
* *
ある日彼は言いました。ザクロが実った、と。
庭に一つだけあるザクロの木から、彼は実をもぎました。
白い指が果皮を割り、中の赤い実を摘んで―――
私の口元に、差し出しました。
* *
その時を思い出したのか、少女は少し頬を赤らめる。
私はその果実のような赤らみに、言い知れない不安を覚えた。
―――あちら側の食べ物。
黄泉の食べ物を食し、現世に戻れなくなった国産みの女神。
勧められた果実を食したために、死人の国の王に嫁ぐことになった女神の娘。
現世に帰れなくなったモノたちの神話が、頭によぎる。これらの示す教訓……否、警告は、ただ一つだ。
戻りたいのなら、あちら側の食べ物は食べてはいけない。
……自分は何を考えてるのだろう。これは、夢の話だ。自分の真剣さに苦笑する。思えば、昔から真に迫った話し方をする子だった。私などより、よっぽど作家に向いている。
それでも、差し出された果実が彼女に拒絶されることを願った。
しかしそれが叶えられるはずがなく、蛍は予想のままに言葉を紡ぐ。
「私はザクロを食べてしまいました」
当然の言葉だった。私もそうするだろう。
私たちのような人種は――あちら側の甘露に、抗えなどしないのだ。
「出されたものを食べるということは、そのひとに迎え入れらるということ」
蛍の視線が、茶菓子の乗っていた皿を撫でる。こちら側の食べ物もまた、彼女は食した。それならば―――
「なので、兄さんともまたいつか」
その先の言葉はなかった。
少女は、糸が切れた人形のように倒れる。
「……蛍!」
抱き起こした少女の頬は、眠り姫のように薔薇色で。
安らぎと喜びに満ちた吐息をこぼしていた。
* *
あれから、蛍からも、蛍の家族からも連絡が来ない。
ついに辛抱できなくなり、私は、数年ぶりに実家に電話をかけた。
蛍はどうなったのか。
それだけを告げると、母は呆れた様子で小言を一つ二つ呟き、急に声をひそめた。
私の家で倒れてから、一週間後―――蛍は完全に目覚めなくなった、と。
聞くと、少し前からことりと眠り込んでは半日以上目覚めない、とい