トルムチルドレン
「俺とその、商学部のなんとかさんが、付き合ってるとか、静香ちゃん、言ってた?」
私はかぶりを振り、それが顔を上げない光輝にも伝わったのか、彼はふっと笑った。
「お前、この猫のキャラクター好きか?」
相変わらずノートから目を上げない光輝に、今度は声に出して「うん、好きだよ」と言う。光輝はまた溜め息みたいに笑い、そしてひと言。
「俺の事は好きか?」
銃弾を食らったみたいに、一度身体が跳ねた。これは全くの不随意運動で、自分でも驚いた。返事をしなければいけないと思うのに、開いたり閉じたりする口は、空気ばかりを出し入れして、のどが声を出そうとしない。
そのうちに光輝がすっと顔をあげ、私に真っすぐな視線を送り込んできた。
「俺はヒロの事が好きなんだ。付き合って欲しいんだ」
耳から入った情報は、脳の中に伝達され、次は口を開いて、声を出せと指令を送る。
「わ、わたしも、好き」
硬直したように私を見据えていた顔は、瞬時にふんわりと緩み、「何だよ、もっと早く言えば良かった」と穏やかに笑った。
私は顔が火照ってきて、きっと見た目にもそれは現れているのだろうと思い、コーヒーを飲む手で誤摩化す。顔色一つ変えない光輝が羨ましかった。
「よし、終わった。これから暇でしょ? どっか行こうよ、初めてのデート」
ノートをパタンと閉じて私に手渡す。私はそれを鞄に仕舞いながら、これは夢なのか現実なのかと思い、右足で左足を思い切り踏んづけてみたら、思った以上に痛みが走り、これが現実なのだと分かる。
どこ行くかなーと言いながら、ぐいっと伸びをした光輝が、二回、三回と咳をした。飲んでいたカフェオレが気管にでも入ったのかと思い、笑ってやろうと彼の顔を見た。
途端、顔色が瞬時に真っ白になり、苦しそうに顔が歪んだ。口を押さえた手の指の隙間から、体液が漏れだす。何なんだ、何の冗談。
「誰か、きゅ、救急車!」
私は叫んだ。殆ど悲鳴に近かった。自分が携帯電話を持っているのは分かっているのだが、起こっている事を目の前にして、冷静に救急車など呼べない事も分かっていた。他の客は遠巻きに私と光輝を見ている。
光輝は口元を押さえたままテーブルに突っ伏し、苦しそうにノートの縁を握っている。その手は大袈裟な程に震えている。
そのまま、動かなくなった。
ノートにマジックで書かれた「峰山光輝」の名前は、体液で滲んで輪郭だけを残した。
光が、失われて行く。