「舞台裏の仲間たち」 22~24
12歳で尋常小学校を卒業した良を、
星家では、高等科に進ませる経済的なゆとりがなかったようです。
家家の由緒ある家具や骨董品はもとより衣類、庭の樹々や果実に至るまでが
売りに出され、良自身も質屋通いをする家庭事情がありました。
質屋通いをした質屋のひとつに、土井質店があります。
そこの息子の林吉が、のちの土井晩翠その人でした。
ともあれ良にとっては、好まない道ではあったようですが、
せいぜい実用的な目的ということあり、裁縫学校へ
通わされることになりました。
長兄の彦太夫は、医師を志して上京したまま帰仙しません。
次兄の時二郎は東京の電信修技学校に通っていましたが、
明治17年10月にチブスで死亡をしました。
三兄の圭三郎は、燃えるような青雲の志を押さえて
13歳の年から、宮城県庁の給仕に甘んじていることを思えば
やむ得ないという家庭事情もあったようでした。
圭三郎は自由民権思想に熱中し、良に景山英子のような女闘志になるように
励まし、政治小説『花間鶯』や『雪中梅』などを貸してくれました。
しかし、よほど思い込んでいたのか、
両親は勉強をしたがる良の姿に可愛そうだという慈悲から、
自宅から通える宮城女学校ならばと、その入学を許可してくれました。
明治24年(1891)のことです。
良は、宮城女学校に入学したものの、
いわゆる「ストライキ事件」を機として退学をします。
黒光は、この退学に至る過程を「宮城女学校最初のストライキ」として
『宮城女学校五十周年史』や、自叙伝的作品『黙移』でも掲載しています。
宮城女学校を退学したあと、
横浜のフェリス和英女学校に入学をしました。
がすぐに、明治28年(1895)巌本善治が運営していた
明治女学校に転校をします。
明治女学校在学中には島崎藤村の授業も受けていたようです。
また従妹の佐々城信子を通じて国木田独歩とも交わり、
このころから、本格的に文学への視野を広げるようにもなりました。
「黒光」の号は、横溢する才気を黒で包むようにという
巌本善治の命名とも言われています。
卒業後まもなくして20歳で相馬愛蔵と結婚をし、愛蔵の郷里・長野の
安曇野に住むことになりました。
しかし、山村の旧家の風に合わず、4年後の明治34年(1901)12月に
長男を連れて夫とともに上京をして、東京本郷に
小さなパン屋・中村屋を開業することになります。
「此処から先のお話は、
【中村屋サロン】と呼ばれ、沢山の芸術家たちが
相馬家に出入りしたことなどでよく知られています。
またその中の一人に、新進の彫刻家、萩原碌山もいました。
でも、この二人は
このサロンで再会する前に
ここ安曇野で、最初の出会いを果たしています。
絵になる、素敵な出会いの光景です。
黒光の自伝の中でも、私が一番好きな情景ののひとつです。
次は、そこからのお話をしましょう・・・」
おばあちゃんが、もう一本のワインを持ってきました。
茜の目元が赤いのは、ワインに酔ったせいでしょうか、それとも、
まだ、涙が乾ききっていないためでしょうか・・・
それは誰にもわかりません。
おばあちゃんの話は、朝まで続きそうな気配があり、一方
「ちょっと軽く」と呑みに出た男二人も、一向に帰ってくる様子がありません。
(25)へつづく
作品名:「舞台裏の仲間たち」 22~24 作家名:落合順平