And Then ~すべては、そこから…~
「マスター?久し振り。席、空いてる?」
「おっ!徳ちゃん、いらっしゃい。久し振りやね〜。元気やったん?」
「元気じゃないよ〜。会議が延びに延びてさ〜、気が付けばこんな時間だよ〜」
そう言って、徳野啓次(とくのけいじ)は大袈裟にため息を吐いてみせた。
「そっかい、そっかい。それはご苦労様。まっ、立ち話もなんやから空いてる席にでも座んなよ」
徳野を満面の笑みで出迎えてくれた、居酒屋の店主。
その笑顔を見るだけで、徳野の疲れは多少だけれど薄れる。
だからなのだろう。岡山に出張があるたびに、この店に来てしまうのは。
ま、いつも宿泊するホテルにも近いということもあり、酔っ払って帰っても迷うことがないというのも一つの理由でもあるが……。
そんな格好の場所に、この店はあった。
徳野は、いつもの場所であるカウンター席に腰を下ろした。
店の出入口付近なので人の行き来は気になるが、それを除けば店全体が見渡せる絶好の場所であり、一人でいても退屈はしないのだ。
勿論、テレビはある。けれど、9時を過ぎると番組はどれもドラマやバラエティーばかりで、それに歳のせいかそういったたぐいの番組は、ここ数年徳野は見なくなっていた。
「徳ちゃん?いつもので、いっかい?」
と店主は聞きながら、徳野の前におしぼりと瓶ビールを置いた。
「あぁ、マスターに任せるよ」
あいよ!と店主は威勢良く返事をして、徳野のために調理に取り掛かる。
常連客ならではの、いつもの、という言葉はやはり気持ちがいい。
けれど、だからといって徳野が食べたい物はそんなにそんなに出てきたためしはない。
なら、素直に注文をしてはどうなのか、と問われればそれまでなのだけれど、この店に限ってはそれらの常識は通用しないのだ。
この店には、メニューというものが存在しないのだから。
全てはマスターの気分次第で、その日のメニューが決まってしまう。
日替わり定食ならぬ、日替わりメニューみたいなものだ。
タイミングが良ければ、食べたい物がある。
なければ、それまで。いつもの、と言っても何が出てくるかは、出てきてからのお楽しみでしかないのだ。
ま、そのドキドキ感を除けば、味も、店の雰囲気も、勿論店主の人柄も申し分ないのだけれど……。
無論、ちゃんと営業をすれば繁盛するのは間違いないはず。
と思うのは、徳野だけではない。
けれど、思うだけで店主に言う者はいなかった。
繁盛してしまえば、こんなふうにゆっくりした時間を過ごせなくなるからだ。
だからなのだろう。あえて、誰もそんなことを口にしないのは。
経営者側からじゃなく、やはり客側からの目線で見てしまうのは当然のことなのだけれど、だからといって店が潰れてしまえば元も子もないのだけれど―――。
なんて、月に数回しか来ない自分が、そんなふうに偉そうなことを言えないが……。
徳野はいつものように、料理が出てくるまでの間ビールをチビチビと飲みながらこぢんまりとした店内を眺めていた。
十時を過ぎると、やはりお客は少ない。
三つに仕切られた小上がりの一つに、会社帰りのサラリーマンらしき男性三人。
カウンター席には、奥側の席に熟年のカップル、いや夫婦だろうか、仲睦まじく会話を楽しんでいる。
真ん中辺りには、一人で来ている女性客が携帯をいじりながら座っていた。
ここにいるお客は、たぶん常連客なのだろう。
名前は知らないが、知った顔が何人かいた。
それに、店主とも親しげに話している。
そして何よりも、ちゃんとここのシステムを熟知しているのだった。
「あいよ」
ぼんやりと店内を眺めていた徳野の前に、店主が出来上がったばかりの料理を置いた。
「おっ?竹の子か。いいね〜。今が旬だもんな〜」
「あと、さわらの刺身と、アスパラもあるよ。さわらは、あとでお茶漬けにしてあげるっから」
店主は他にも何品かの料理を置くと、小上がりのお客に呼ばれて行ってしまった。
「こんなに食べられるかな……」
徳野は呟いた。
いつものことなのだけれど、やはり言わずにはいられなかった。
もし食べ切れなかったら、強制的に持ち帰るシステム。
地元に住んでいれば別に構わないことなのだけれど、徳野に限っては違う。
家ではなく、ホテルだ。一応、朝食付きなので、持ち帰っても無駄になってしまうことが多い。
なので、いつも無理矢理料理を胃袋の中に押し込むことになる。これもいつものことだ。
ちょっと、お腹が苦しくなってきたな……。
誰かと来ているなら、休み休み食べられる。
けれど、一人だとそうもいかない。
話し相手がいない分、どうしても料理に集中してしまうからだ。
「マスター?お酒、貰える?いつもの、アレ」
「あいよ!いつものだよね」
と言って、店主は徳野に瓶のラベルを見せた。
「そうそう、それそれ。そのカラフルなラベル」
と徳野は指を差した。
「そのお酒。荒走り?って言うんだっけ?それ、好きなんだよね〜」
「そうそう。別名『香り酒』。高い香りと豊な味わいに、病み付きになる人が多いんよ。スルッと飲めちゃう酒やしね」
「そうそう。だから、つい飲みすぎちゃうんだよ〜」
と笑って、徳野はその岡山の地酒を注文した。
徳野は、ここで試飲をさせてもらってからその酒のファンになった。
そして、この店に来たら必ずといっていいほど注文をするようになっていたのだ。
なのに、その酒の名前を未だに覚えられずにいるのは、やはり飲みすぎてしまうせいなのかもしれない……。
「あっ?そのお酒、私も好き」
そう言って、突然会話に入ってきたのは、カウンター席に一人で座っていた女性客だった。
「おっ、そうか?じゃ、あすかちゃんも飲む?おじさん、おごっちゃうよ〜」
陽気になった店主が、満面な笑みで言った。
「ホント?嬉しい。マスター、ありがと〜」
「いいってことよ。じゃぁ、おじさんも飲んじゃおうかな〜」
徳野が注文した酒は、今はそのあすかという娘(こ)のためにグラスに注がれ、尚且つ店主自身のグラスにも注がれた。
そして二人は「かんぱ〜い」と言って、グラスを傾けるのだった。
いやいや、それ注文したの、僕だから。
と呟くも、勿論二人には届くはずもなく、すっかり徳野は置き去りにされてしまったのだ。
なので、仕方なく二人の会話が終わるまで苦手なビールを舐めながら待つこととなる。
店主は酒でますます陽気になる。そして、楽しそうにそのあすかという娘と会話をする。
歳を取るにつれ、若い娘と話が出来るということは嬉しいことなのだろう。
自分だってそうなのだから、五十歳をとうに過ぎた店主ならもっとそう思うに違いない。
と徳野は酒で赤ら顔になった店主の横顔を眺めながら思う。
少し会話が途切れたところに、また小上がり席から店主を呼ぶ声が聞こえた。
店主は億劫なのか、その場で注文を取る。
これも、いつもの光景だ。閉店一時間くらい前になると、料理を運ぶ時だけ動く、という最小限の行動しかしなくなるのだ。
「すいません……。これ、先に頂いちゃって……」
「おっ!徳ちゃん、いらっしゃい。久し振りやね〜。元気やったん?」
「元気じゃないよ〜。会議が延びに延びてさ〜、気が付けばこんな時間だよ〜」
そう言って、徳野啓次(とくのけいじ)は大袈裟にため息を吐いてみせた。
「そっかい、そっかい。それはご苦労様。まっ、立ち話もなんやから空いてる席にでも座んなよ」
徳野を満面の笑みで出迎えてくれた、居酒屋の店主。
その笑顔を見るだけで、徳野の疲れは多少だけれど薄れる。
だからなのだろう。岡山に出張があるたびに、この店に来てしまうのは。
ま、いつも宿泊するホテルにも近いということもあり、酔っ払って帰っても迷うことがないというのも一つの理由でもあるが……。
そんな格好の場所に、この店はあった。
徳野は、いつもの場所であるカウンター席に腰を下ろした。
店の出入口付近なので人の行き来は気になるが、それを除けば店全体が見渡せる絶好の場所であり、一人でいても退屈はしないのだ。
勿論、テレビはある。けれど、9時を過ぎると番組はどれもドラマやバラエティーばかりで、それに歳のせいかそういったたぐいの番組は、ここ数年徳野は見なくなっていた。
「徳ちゃん?いつもので、いっかい?」
と店主は聞きながら、徳野の前におしぼりと瓶ビールを置いた。
「あぁ、マスターに任せるよ」
あいよ!と店主は威勢良く返事をして、徳野のために調理に取り掛かる。
常連客ならではの、いつもの、という言葉はやはり気持ちがいい。
けれど、だからといって徳野が食べたい物はそんなにそんなに出てきたためしはない。
なら、素直に注文をしてはどうなのか、と問われればそれまでなのだけれど、この店に限ってはそれらの常識は通用しないのだ。
この店には、メニューというものが存在しないのだから。
全てはマスターの気分次第で、その日のメニューが決まってしまう。
日替わり定食ならぬ、日替わりメニューみたいなものだ。
タイミングが良ければ、食べたい物がある。
なければ、それまで。いつもの、と言っても何が出てくるかは、出てきてからのお楽しみでしかないのだ。
ま、そのドキドキ感を除けば、味も、店の雰囲気も、勿論店主の人柄も申し分ないのだけれど……。
無論、ちゃんと営業をすれば繁盛するのは間違いないはず。
と思うのは、徳野だけではない。
けれど、思うだけで店主に言う者はいなかった。
繁盛してしまえば、こんなふうにゆっくりした時間を過ごせなくなるからだ。
だからなのだろう。あえて、誰もそんなことを口にしないのは。
経営者側からじゃなく、やはり客側からの目線で見てしまうのは当然のことなのだけれど、だからといって店が潰れてしまえば元も子もないのだけれど―――。
なんて、月に数回しか来ない自分が、そんなふうに偉そうなことを言えないが……。
徳野はいつものように、料理が出てくるまでの間ビールをチビチビと飲みながらこぢんまりとした店内を眺めていた。
十時を過ぎると、やはりお客は少ない。
三つに仕切られた小上がりの一つに、会社帰りのサラリーマンらしき男性三人。
カウンター席には、奥側の席に熟年のカップル、いや夫婦だろうか、仲睦まじく会話を楽しんでいる。
真ん中辺りには、一人で来ている女性客が携帯をいじりながら座っていた。
ここにいるお客は、たぶん常連客なのだろう。
名前は知らないが、知った顔が何人かいた。
それに、店主とも親しげに話している。
そして何よりも、ちゃんとここのシステムを熟知しているのだった。
「あいよ」
ぼんやりと店内を眺めていた徳野の前に、店主が出来上がったばかりの料理を置いた。
「おっ?竹の子か。いいね〜。今が旬だもんな〜」
「あと、さわらの刺身と、アスパラもあるよ。さわらは、あとでお茶漬けにしてあげるっから」
店主は他にも何品かの料理を置くと、小上がりのお客に呼ばれて行ってしまった。
「こんなに食べられるかな……」
徳野は呟いた。
いつものことなのだけれど、やはり言わずにはいられなかった。
もし食べ切れなかったら、強制的に持ち帰るシステム。
地元に住んでいれば別に構わないことなのだけれど、徳野に限っては違う。
家ではなく、ホテルだ。一応、朝食付きなので、持ち帰っても無駄になってしまうことが多い。
なので、いつも無理矢理料理を胃袋の中に押し込むことになる。これもいつものことだ。
ちょっと、お腹が苦しくなってきたな……。
誰かと来ているなら、休み休み食べられる。
けれど、一人だとそうもいかない。
話し相手がいない分、どうしても料理に集中してしまうからだ。
「マスター?お酒、貰える?いつもの、アレ」
「あいよ!いつものだよね」
と言って、店主は徳野に瓶のラベルを見せた。
「そうそう、それそれ。そのカラフルなラベル」
と徳野は指を差した。
「そのお酒。荒走り?って言うんだっけ?それ、好きなんだよね〜」
「そうそう。別名『香り酒』。高い香りと豊な味わいに、病み付きになる人が多いんよ。スルッと飲めちゃう酒やしね」
「そうそう。だから、つい飲みすぎちゃうんだよ〜」
と笑って、徳野はその岡山の地酒を注文した。
徳野は、ここで試飲をさせてもらってからその酒のファンになった。
そして、この店に来たら必ずといっていいほど注文をするようになっていたのだ。
なのに、その酒の名前を未だに覚えられずにいるのは、やはり飲みすぎてしまうせいなのかもしれない……。
「あっ?そのお酒、私も好き」
そう言って、突然会話に入ってきたのは、カウンター席に一人で座っていた女性客だった。
「おっ、そうか?じゃ、あすかちゃんも飲む?おじさん、おごっちゃうよ〜」
陽気になった店主が、満面な笑みで言った。
「ホント?嬉しい。マスター、ありがと〜」
「いいってことよ。じゃぁ、おじさんも飲んじゃおうかな〜」
徳野が注文した酒は、今はそのあすかという娘(こ)のためにグラスに注がれ、尚且つ店主自身のグラスにも注がれた。
そして二人は「かんぱ〜い」と言って、グラスを傾けるのだった。
いやいや、それ注文したの、僕だから。
と呟くも、勿論二人には届くはずもなく、すっかり徳野は置き去りにされてしまったのだ。
なので、仕方なく二人の会話が終わるまで苦手なビールを舐めながら待つこととなる。
店主は酒でますます陽気になる。そして、楽しそうにそのあすかという娘と会話をする。
歳を取るにつれ、若い娘と話が出来るということは嬉しいことなのだろう。
自分だってそうなのだから、五十歳をとうに過ぎた店主ならもっとそう思うに違いない。
と徳野は酒で赤ら顔になった店主の横顔を眺めながら思う。
少し会話が途切れたところに、また小上がり席から店主を呼ぶ声が聞こえた。
店主は億劫なのか、その場で注文を取る。
これも、いつもの光景だ。閉店一時間くらい前になると、料理を運ぶ時だけ動く、という最小限の行動しかしなくなるのだ。
「すいません……。これ、先に頂いちゃって……」
作品名:And Then ~すべては、そこから…~ 作家名:ミホ