無実の男
「久しぶりだな佐倉。最近見ないから大人しくしてるのかと思ってたよ。」
安い金属製のテーブルを挟んで、パイプ椅子に座っている男に声をかけた。男は俯いたまま返事もしない。
男の名は佐倉剛輔。今回の事件の被疑…、ではなく重要参考人だ。
この第三取調室に来てもらったは良いが大切なことは喋らないので、しょうがなく私が呼ばれたのだった。
常々思う。どうしてこう取調室と言うやつは、こう辛気臭いのだろう。これであること無いこと何でも話せと言う方が無茶である。まぁいいと呟きながら、私も同様のパイプ椅子に腰かける。
「で、今回は何をしたんだ。まだ誰かを殴ったのか?」
その問いに応えたのは、目の前の佐倉ではなく、背後に立っていた後輩の鈴原であった。
「いえ警部。今回の被疑者の容疑は傷害ではありません。殺人容疑です。」
「殺人?」
「はい。まず事件があったのが、二日前の十月二十日です。N**市内のアパート富士見荘203号室で、被害者の遠野美樹二十六歳が遺体となって発見されました。第一発見者はアパートの大家です。毎朝顔を合わせるはずの被害者が出てこないのを不審に思い、部屋を訪ねてみると遺体となった被害者を発見したそうです。死因は頸部圧迫による窒息死です。首の周りには、部屋の電気コードで首を絞めた跡がくっきり残っていました。死亡推定時刻は同日の午後九時から十一時の二時間と断定されました。
また、アパートの隣人が同時刻に言い争う声や激しい物音を聞いており、犯行があったものとみてまず間違いないと思われます。
被疑者は当時、被害者の遠野美樹と同棲しておりましたが、犯行時直後から姿を消していました。しかし昨日の夕方、JRのE**駅付近の公園に居る所を付近をパトロールしていた巡査が発見、任意で同行してもらって今に至ると言う訳です。何か質問はありますか?」
「それだけの理由で、彼が犯人だと?」
「いえ、そうでもないのです。実は…」
「僕はやって無い。本当です黒河さん! 信じてください。」
鈴原の言葉を遮るように佐倉が吠えた。力を込めた両拳でテーブルを殴りつける。
テーブルに置かれていたアルミの灰皿が、丸ごと床に落ちた。
乾いた音がした。私がやれやれと拾い上げる。
「うん、私も信じてるよ。お前は人を殴ることはあっても、殺しなんかする様な人間じゃない。お前の疑いを晴らすためにも通報前日、つまり十九日の九時から十一時の間、何処で何をしていたか教えてくれないか。その裏が取れれば、お前は無実と言う事が証明されるんだがね。」
私は諭すように言った。だが、佐倉は表情を曇らせる。
「……言えません。」
「うん? 言えない?」
「はい。言えません。」
「言えないってお前な、こんなところで駄々をこねてる場合じゃないんだぞ。解ってるのか、お前は今、殺人犯として疑われてるんだぞ。」
佐倉はかぶりを振る。
「以前から黒河さんにはお世話になってきました。感謝してもしきれません。ですが、これだけは言えません。」
開いた口が塞がらなかった。自分がどう言う立場に置かれているか解っているのだろうかと本気で疑ってしまう。鈴原に眼を配ると、彼も口をへの字に曲げていた。
「そうなんです警部。実は彼、事件当日のアリバイを聞こうと思っても『言えない』の一点張りなんです。ここで証言しなければどんどん不利な方向に捜査が進んでしまうぞと言っても聞かないんです。」
「なるほど、それで私が呼ばれた訳か」
視線の先の男は、額をテーブルに擦り付けるように頭を下げ、「僕はやってない。信じてください。」とまるで呪詛の様に繰り返し呟いているだけだった。
警視庁捜査一課。主に殺人事件を扱うのがこの部署であり、私の職場でもある。
所謂、キャリア組の連中はあっという間に私を追い抜いていき、気がつけば自分よりも若い上司に頭を下げる日々も慣れて来た。私も今年で四十代半ば。世間ではアラフォーと呼ばれる年代になってきたと痛感する。
自分のデスクに頬杖を突きながら、捜査資料の文面に眼を走らせた。
「絶対怪しいですよ。あの佐倉って奴。まず間違いありません。」
後輩の鈴原は鼻息を荒くしながら訴えてくる。
「もし自分が犯人でないなら、堂々と犯行時刻のアリバイを宣言すれば良いはずですよ。それが出来ないって事は、すなわち彼自身に後ろめたいことがある何よりの証拠。それに被害者の友人の証言では、二人は最近浮気が原因でよく口論をしていて、別れ話にも発展していたとか。これが動機にもなります。」
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佐倉剛輔。二十八歳。無職。
過去に逮捕補導歴が八回ある。そのうち七回が傷害事件、一回が窃盗事件であり、いずれもそれ相応の刑罰を受けている。定職には就かず今現在でも日雇いを転々としているとのことだ。
ここまで書くと典型的な札付きに見えるかもしれないが、少なくとも私にはそうは見えなかった。七回の傷害事件と記録の上ではなっているがその全てがチンピラに絡まれての正当防衛、或いは巻き込まれた友人たちを守るための暴力行為であった。自分から誰かに暴力を振るったと言う事は一件も無かった。また窃盗と言うのも、まだ小学生の頃、親にろくな食事を与えてもらえ無かったと言う。世に言うネグレクトと言う児童虐待の一種だ。空腹を紛らわせる為、やむを得ず行った万引きであった。しかも万引きした後、彼は私のいた交番に「僕は万引きしました」と名乗り出て来たのだ。そう、彼とはその頃からの馴れ初めになる。それから彼が警察の御用になる度に、私が彼の話を聞いてやった。職を世話してあげたことも一度や二度ではなかった。まぁその都度、職場で嫌味を言ってきた上司と喧嘩するなど、問題を起こしてその職場を追い出されたこともある。
血の気こそ多いが、根っからの悪党では無いと思っていた。
そこへ今回の事件だった。
「先輩聞いてますか!?」
「うんうん、聞いてるぞ。この佐倉が犯人に違いないって言うんだろ。」
「そうです。誰が見ても一目瞭然です。」
「ならさっさと逮捕状を請求すれば良いだろ。」
そう言われると、鈴原はとたんに口を閉じた。その表情は大層渋面に満ちていることだろう。見なくても想像できる。
「できないんだろ。そりゃそうだ、あの説明この説明どれもこれも後付けだ。
佐倉が犯人だから、直前に喧嘩したことが動機になり、アリバイが無いことが怪しく見える。恋人同士なんだから喧嘩だってするだろうし、普通の一般市民が毎日毎日アリバイがある訳が無い。」
「だからと言って奴が犯人で無いと言う根拠にはなりません。どうして先輩はそこまで奴を庇い立てるんですか。」
「あいつの事を昔から知っているがあいつは今回の事件の犯人なんかじゃない。根は真面目で少々臆病なだけだ。それだけ人からは誤解されやすいがな。」
鈴原は無言だ。恐らく呆れているのだろう。当然だ。
「ただあいつが何かを隠していることは確かだな。何か人には言えない秘密がある。それのせいであいつは口を閉ざしているに違いない。それを探らにゃいかん。」
安い金属製のテーブルを挟んで、パイプ椅子に座っている男に声をかけた。男は俯いたまま返事もしない。
男の名は佐倉剛輔。今回の事件の被疑…、ではなく重要参考人だ。
この第三取調室に来てもらったは良いが大切なことは喋らないので、しょうがなく私が呼ばれたのだった。
常々思う。どうしてこう取調室と言うやつは、こう辛気臭いのだろう。これであること無いこと何でも話せと言う方が無茶である。まぁいいと呟きながら、私も同様のパイプ椅子に腰かける。
「で、今回は何をしたんだ。まだ誰かを殴ったのか?」
その問いに応えたのは、目の前の佐倉ではなく、背後に立っていた後輩の鈴原であった。
「いえ警部。今回の被疑者の容疑は傷害ではありません。殺人容疑です。」
「殺人?」
「はい。まず事件があったのが、二日前の十月二十日です。N**市内のアパート富士見荘203号室で、被害者の遠野美樹二十六歳が遺体となって発見されました。第一発見者はアパートの大家です。毎朝顔を合わせるはずの被害者が出てこないのを不審に思い、部屋を訪ねてみると遺体となった被害者を発見したそうです。死因は頸部圧迫による窒息死です。首の周りには、部屋の電気コードで首を絞めた跡がくっきり残っていました。死亡推定時刻は同日の午後九時から十一時の二時間と断定されました。
また、アパートの隣人が同時刻に言い争う声や激しい物音を聞いており、犯行があったものとみてまず間違いないと思われます。
被疑者は当時、被害者の遠野美樹と同棲しておりましたが、犯行時直後から姿を消していました。しかし昨日の夕方、JRのE**駅付近の公園に居る所を付近をパトロールしていた巡査が発見、任意で同行してもらって今に至ると言う訳です。何か質問はありますか?」
「それだけの理由で、彼が犯人だと?」
「いえ、そうでもないのです。実は…」
「僕はやって無い。本当です黒河さん! 信じてください。」
鈴原の言葉を遮るように佐倉が吠えた。力を込めた両拳でテーブルを殴りつける。
テーブルに置かれていたアルミの灰皿が、丸ごと床に落ちた。
乾いた音がした。私がやれやれと拾い上げる。
「うん、私も信じてるよ。お前は人を殴ることはあっても、殺しなんかする様な人間じゃない。お前の疑いを晴らすためにも通報前日、つまり十九日の九時から十一時の間、何処で何をしていたか教えてくれないか。その裏が取れれば、お前は無実と言う事が証明されるんだがね。」
私は諭すように言った。だが、佐倉は表情を曇らせる。
「……言えません。」
「うん? 言えない?」
「はい。言えません。」
「言えないってお前な、こんなところで駄々をこねてる場合じゃないんだぞ。解ってるのか、お前は今、殺人犯として疑われてるんだぞ。」
佐倉はかぶりを振る。
「以前から黒河さんにはお世話になってきました。感謝してもしきれません。ですが、これだけは言えません。」
開いた口が塞がらなかった。自分がどう言う立場に置かれているか解っているのだろうかと本気で疑ってしまう。鈴原に眼を配ると、彼も口をへの字に曲げていた。
「そうなんです警部。実は彼、事件当日のアリバイを聞こうと思っても『言えない』の一点張りなんです。ここで証言しなければどんどん不利な方向に捜査が進んでしまうぞと言っても聞かないんです。」
「なるほど、それで私が呼ばれた訳か」
視線の先の男は、額をテーブルに擦り付けるように頭を下げ、「僕はやってない。信じてください。」とまるで呪詛の様に繰り返し呟いているだけだった。
警視庁捜査一課。主に殺人事件を扱うのがこの部署であり、私の職場でもある。
所謂、キャリア組の連中はあっという間に私を追い抜いていき、気がつけば自分よりも若い上司に頭を下げる日々も慣れて来た。私も今年で四十代半ば。世間ではアラフォーと呼ばれる年代になってきたと痛感する。
自分のデスクに頬杖を突きながら、捜査資料の文面に眼を走らせた。
「絶対怪しいですよ。あの佐倉って奴。まず間違いありません。」
後輩の鈴原は鼻息を荒くしながら訴えてくる。
「もし自分が犯人でないなら、堂々と犯行時刻のアリバイを宣言すれば良いはずですよ。それが出来ないって事は、すなわち彼自身に後ろめたいことがある何よりの証拠。それに被害者の友人の証言では、二人は最近浮気が原因でよく口論をしていて、別れ話にも発展していたとか。これが動機にもなります。」
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佐倉剛輔。二十八歳。無職。
過去に逮捕補導歴が八回ある。そのうち七回が傷害事件、一回が窃盗事件であり、いずれもそれ相応の刑罰を受けている。定職には就かず今現在でも日雇いを転々としているとのことだ。
ここまで書くと典型的な札付きに見えるかもしれないが、少なくとも私にはそうは見えなかった。七回の傷害事件と記録の上ではなっているがその全てがチンピラに絡まれての正当防衛、或いは巻き込まれた友人たちを守るための暴力行為であった。自分から誰かに暴力を振るったと言う事は一件も無かった。また窃盗と言うのも、まだ小学生の頃、親にろくな食事を与えてもらえ無かったと言う。世に言うネグレクトと言う児童虐待の一種だ。空腹を紛らわせる為、やむを得ず行った万引きであった。しかも万引きした後、彼は私のいた交番に「僕は万引きしました」と名乗り出て来たのだ。そう、彼とはその頃からの馴れ初めになる。それから彼が警察の御用になる度に、私が彼の話を聞いてやった。職を世話してあげたことも一度や二度ではなかった。まぁその都度、職場で嫌味を言ってきた上司と喧嘩するなど、問題を起こしてその職場を追い出されたこともある。
血の気こそ多いが、根っからの悪党では無いと思っていた。
そこへ今回の事件だった。
「先輩聞いてますか!?」
「うんうん、聞いてるぞ。この佐倉が犯人に違いないって言うんだろ。」
「そうです。誰が見ても一目瞭然です。」
「ならさっさと逮捕状を請求すれば良いだろ。」
そう言われると、鈴原はとたんに口を閉じた。その表情は大層渋面に満ちていることだろう。見なくても想像できる。
「できないんだろ。そりゃそうだ、あの説明この説明どれもこれも後付けだ。
佐倉が犯人だから、直前に喧嘩したことが動機になり、アリバイが無いことが怪しく見える。恋人同士なんだから喧嘩だってするだろうし、普通の一般市民が毎日毎日アリバイがある訳が無い。」
「だからと言って奴が犯人で無いと言う根拠にはなりません。どうして先輩はそこまで奴を庇い立てるんですか。」
「あいつの事を昔から知っているがあいつは今回の事件の犯人なんかじゃない。根は真面目で少々臆病なだけだ。それだけ人からは誤解されやすいがな。」
鈴原は無言だ。恐らく呆れているのだろう。当然だ。
「ただあいつが何かを隠していることは確かだな。何か人には言えない秘密がある。それのせいであいつは口を閉ざしているに違いない。それを探らにゃいかん。」