時は動き出した
10
月が変わっただけなのに、空気が変わるのが昔から不思議でならなかった。
十二月の空気はどこか浮き足立っている感じがして、若い時は大好きだったこの月が、結婚をしてからこちら、あまり好きではなくなっている。
掃除機をかける時に換気の為に開けた掃出し窓を、ぴしゃっと閉めた。
昭二はリビングにあるパソコンに、何やらグラフを表示させて齧りついている。株価か。
「株、やってんの?もしかして」
彼はずっとモニタから目を外さず、腕組みをしている。
「会社の奴がやってて。面白そうだから少し買ってみた」
私は頭を擡げて首を振った。相談も無しに......。
先週書いたメモは、手帳に挟んである。ボールペンとメモを手に、リビングへ戻り、ソファに腰掛けた。
「不妊治療の話が、したいんだけど」
熱中している昭二に「え?」と訊き直されないように、ゆっくりと、大きな声で言った。
「何だよ、今かよ」
ぶつくさ文句を言いながら対面に座った。文句を言いたいのはこちらの方だ。
「とりあえずね、昭二は子供がいますぐ欲しいの?絶対欲しいの?それともいつでもいいの?」
私は昭二をじっと見つめたが、彼は俯いたまま首の後ろを掻き「まぁできれば今すぐにでも欲しいとは思ってるよ」と答える。
「で、不妊治療をしていくつもりは?」
「治療ったって、医者にやれって言われた日にやるんだろ。その日に暇だとは限らないんだから、そんな治療じゃ受けらんないだろ」
どうだと言わんばかりの顔で私を睨みつけてきたので、私は多少狼狽した。
「早く子供をもうけるためには、暇だ忙しいだ言い訳してたら、どんどんチャンスが先延ばしになるんだよ」
「俺はそんな不妊治療だったらやらない。セックスしたい時にして、子供が欲しい」
「そうしてきて、今までできなかったんでしょ!」
またしても声を荒らげてしまった。昭二は顔を真っ赤にして反撃してきた。
「お前のどっかに異常でもあるんだろ、それをどうにかしてから言えよ!」
目の前に真っ青なスクリーンが落ちて来たように、瞬時に血の気が引いた。自分の不妊検査は拒否しておいて、私には不妊検査をさせておいて、異常がない事も伝えたのに、こんな事を平気で言うなんて......。溢れそうになる涙をぐっとこらえた。こんな奴の為に涙を流すぐらいなら、トイレにでも流した方がましだ。
「じゃぁ、協力はしないって事だね。自分の検査もしないんだね」
「そうだよ」
パソコンから電子音が鳴った。
「あ、ちょっともうこの話終わり」
そう言ってまたパソコンの前に座り、モニタを凝視し始めた。
私はこの人との子作りを諦めた方が良いのかも知れない。
そもそも、急いでいた訳ではない。私は、夫婦の時間をある程度持った後でいいと思っていたんだから。
もっと愛を育んでからでいいと、そう思っていたんだから。
今では愛なんて物すら見当たらない。そこにはただの「同居人」「情」そんな言葉しか見当たらないのだ。
「ちょっと出てくる」
そう言って鞄とコートを掴み、玄関へ向かった。
「昼飯は?」
「適当に食べて」
吐き捨てるように言った。十二月の浮き足立った空気を纏いながら、マンションの外に出た。やっぱりこの空気は好きになれない。
スマートフォンを手に取り、連絡先から「堺真吾」を呼び出したが、寒さのためか、あるいは他の理由か震える指先は「キャンセル」を押した。
代わりに「相沢さん」に電話を掛けた。彼女が私の上司だ。
「あ、休日にすみません、牧田です」
『どうしたの?珍しいね、土曜日に』
「あの、牧田さん、今日ランチとか、どうですか?」
とても急な申し出だったので、断られるのは承知で言った。断られたらまた一人でふらふらしようと思っていた。
『今日は珍しく旦那も娘も留守だから、ちょうどいい。駅前に集合でどう?』
「あ、じゃぁ今から電車乗りますので、着いたら連絡します」
ショッピングセンターの、例のカフェでランチをした。そこで不妊治療の話をした。
「相沢さんの旦那さんは、協力的でした?」
パスタを噛みながら相沢さんは何度も頷いた。
「うちは旦那が男の子が欲しいって言っててね。それはそれは協力的だったよ」
顔を上げた相沢さんは、誇らしげで、とてもうらやましかった。
「一人娘がいるにもかかわらず、自分の検査もしてくれって言ってたし、結局タイミング法でうまくいったんだけど、朝だろうと夜だろうと子供の為ならって協力してくれたしね」
私と昭二とは全く違う相沢夫妻の状況に、ただただ呆然とするばかりで、言葉が出なかった。
「あんまり協力してくれないの?旦那さん」
私はフォークにパスタを絡めたまま、なかなか口に運ぶ気力が無かった。
「あんまりと言うか、協力はしてくれない癖に、子供は欲しがってるんです」
そうか、と相沢さんはオレンジジュースを一口飲み「牧田さんは?」と私を見た。
「牧田さんは早く子供が欲しいの?」
私は首を傾げながら正直なところを話した。
「私はそう急がなくてもいいと思ってましたし、今でもそうです。もう少し夫婦で仲良くする時間があってもいいかなって。まだ二十五歳ですから」
そうよねぇ、と相沢さんはまたパスタを口にした。私も一つため息をついてからパスタを口に運んだ。そういえば、最後にデートらしいデートをしたのは、いつの事だろう。全く思い出せなかった。懸命に思い出をさかのぼるのだけれど、長い長い滑り台を逆から上って足を滑らせてしまうみたいに、今に戻って来てしまう。
「もう、夫婦で仲良くするっていう雰囲気でもなくなってるんです。もともと忙しい人で、休日に二人で出かけたりする事も少なかったですけど、今は株にご執心みたいで」
うーんと唸る様に相沢さんから声がした。数秒ためて、それから相沢さんは口を開いた。
「ねぇ、旦那さんの事を愛してる?」
ぐっと喉元が苦しくなった。真吾に訊かれた事と同じだ。旦那の事、愛してるか?私が旦那を愛していない空気を醸し出しているのかも知れないと思うと、何だか笑えてくる。
「育む愛もなくなっちゃってます、もう」
私は場の空気が暗くなり過ぎないように努めて笑顔を見せようとしたが、心は笑うのだけれど、表情は引き攣ってしまう。
「中にはね、子供が出来て愛情が再燃する夫婦もいるのかも知れないけれど、牧田さんの旦那さんの話を聞いてると、そう言う感じじゃないよね。お互いに愛情が無い間に生まれてくる子供は、幸せかなぁ?」
私は声を詰まらせた。今、私と昭二の間に子供が出来たら、私と昭二は再び愛し合う事が出来るだろうか。子供は幸せだろうか。
「自分の両親が、もし仲違いをしていたらと思うと、真っ直ぐには生きられなかっただろうなって。自分に言えるのはそれぐらいです」
相沢さんはストローでオレンジジュースをかき混ぜ「冷たい」と身震いして笑った。
「私は牧田さんに、こうしなさい、あぁしなさいって命令できる立場じゃないけど、一つだけ。これから生まれてくるであろう子供の事を思って行動して」
相沢さんの笑顔は、少しだけ母の笑顔に似ていた。心の中に何か温かい物が宿るのが分かった。