おちていく…
穏やかな時間はゆっくりと流れ、季節もゆっくりと移り変わっていった。
変わらないのは、会社の窓から見える夜景と二人の程好い距離間だけ。
「課長。明日まで仕上げなくてはいけない資料があるので、今日残業します」
「そうか。分かった」
矢田は愛子を見ること無く、二つ返事で了承する。
この会話は、矢田が愛子の残業に一緒に残るようになってからも変わらない会話だった。
だから、たぶんこの先も変わらないと思う。
勤務時間が終わり、それぞれ社員が個々の仕事を終え
「お先に失礼しま〜す」
と帰って行く。
「じゃ愛子、お先!残業手伝えなくて、ごめん…。頑張ってね」
同期入社の吉田香織が、すまなそうな顔で手を合わせる。
愛子が残業する時、必ずと言っていい程、香織は毎回同じ言葉を述べる。
手伝う気がなくても、一応その気があるような態度で。
単なる、社交辞令。
「いいから、早く行かないと遅れるちゃうよ。楽しんで来てね」
愛子は笑顔で、これから合コンに行く香織を見送る。
「ホント、ごめん…」
香織は表情とはウラハラに、足取り軽やかにその場を後にした。
愛子としても、無理に残業を手伝って貰うのは気が引ける。
なら一人で、気楽に残業をしたほうがいい。
それが、どんなに時間が掛かる仕事だとしても。
「課長、お先っす!」
最後に残っていた男性社員が、
矢田に挨拶をして帰っていった。
そしてここからは、矢田と愛子の二人きりの空間。
パソコンのキーを叩く音が響くだけの静かな夜。
あとは何も音のしない、異空間。
残業を始めてから数時間。
あとはプリントが終われば、仕事が終わる。
愛子は、フーッと息吐いた。
画面を見続けていた愛子の目は疲れて、視界がボヤけていた。
愛子はそのボヤけた目を治すため、窓辺に視線を向けて遠くを見つめた。
ブラインドが下りていて外が見えないと分かってていても、
人の心理というものは何故だかそこに目が行くものだ。
不思議なもので…。
ボヤけた視界が少しずつ回復される。
あっ………?
夜景で逆光になった矢田の姿が、そこにあった。
あの時、始めて矢田を見た時のように斜めになった背中を愛子を見つめた。
鼓動が早くなった。
手を伸ばせば触れられる距離に、矢田がいる。
その矢田の背中に、しがみつきたい衝動にかられた愛子は、
イスから立ち上がり矢田の今いる場所へと歩き出した。
ピッ、ピッ、ピッー……
用紙切れの合図が、部屋に響いた。
愛子は2、3歩進んだところで、ハッと我に返った。
私……?
今、何をしようとしていたのだろう。
愛子は、自分の行動に驚くと同時に恥じた。
そして慌てて、プリンターに用紙をセットをするのだった。
ドキドキするたび心臓が痛んだ。
矢田に見られないように、愛子は鼓動を落ち着かせるため静かに深呼吸をした。
もう既にないと思っていた、矢田への気持ち。
けれど、それがいつの間にか顔を出し、行動へと誘った。
愛子は、矢田に恋するもう一人の自分の存在に気づく。
いや、知らないふりをしていただけかもしれない。
だから、あんな衝動にかられたのだから。
もしあの時、プリンターの用紙切れがなかったら…
今頃、私は……
無意識な自分の行動に、愛子はゾッとした。
愛子は、印刷が終わった用紙を取り出しパラパラと印刷物を確認した。
よし、大丈夫だ。
あとは、課長に確認してもらって、と…。
そう呟いてから、ふと、愛子は矢田を探した。
矢田はまだ外を眺めていた。
まるで、さっきの愛子の行動なんて知る由も無く―――。
「課長...?」
愛子は矢田の背中に声を掛けた。
矢田は無言のまま、ガラスに映る愛子を見つめる。
ガラス越しに、二人の視線が絡まり合った。
愛子は、矢田からの視線を外すことが出来なかった。
いや、出来なくなっていた。
高鳴る鼓動がさっきより更に増して、矢田に自分の心臓の音が聞こえないか心配になった。
「課長...?」
静かな空間がイヤで、愛子はまた矢田を呼んだ。
その愛子の声で、矢田は静かに振り向く。
「こ、これ…?か、確認…お願いします…」
矢田に差し出した用紙が、微かに震える。
相変わらず矢田は何も言わず、黙ったままポケットからスッと掌を出し、
愛子から渡された書類を受け取る。
が、書類はハラハラと舞いながら落ちていった。
互いにタイミングが狂い、愛子は渡しそこない、矢田は取りそこなったのだ。
あ………???
スローモーションのように舞い散る書類は、そんな広い範囲で散らばらなくても、というくらい、
バラバラになってあちらこちらに散乱する。
「あっ?ごめんなさい…」
愛子はすぐさま、用紙を拾い集めた。
矢田も同じ様に、書類を拾う。
「ドジだな…。青山は」
書類を拾い終わった矢田は立ち上がり、
ほら?
と愛子に書類を渡す。
まだ床に跪いたままの愛子は、目の前にある書類を受け取り矢田を見上げた。
「何してるんだ?早く、立ち上がりなさい」
ほら?
優しい言葉に乗せて、矢田は今度は書類じゃなく自分の掌を愛子の前にやった。
愛子は、その矢田の掌に自分の掌を素直に乗せた。
あっ………???
思いのほか、矢田は勢い良く愛子を引っ張り上げ、その反動で愛子は持っていた書類を手放し、
代わりに矢田の胸の中へと収まった。
ハラハラ舞い散る書類の中、二人はまるでドラマの中にあるワンシーンのように抱き合っていた。
「ご、ごめんなさい…」
愛子は慌てて矢田から離れる。
しかし矢田は、それを拒否するかのように愛子をきつく抱き締めた。
「ずっと俺に、こうされたかったんだろ?」
矢田が愛子の耳元で囁いた。
「いや…ちが…う」
矢田にそう言われ、恥ずかしくなった愛子は矢田から逃げる。
けれど、すぐに諦めた。
だって、ずっとこうやって抱き締められたかったのだから…
愛子は矢田の胸に顔を埋め、そう思った。
「愛子…?さっき、俺に見惚れてだたろ?」
気付かれていないと思っていた、愛子の無意識な行動は、
やはり矢田は見ていたのだった。
そのことに触れられた愛子は、顔を紅潮させ首を何度も振ってうつむいた。
そして何よりも、矢田の優しい声で名前を呼ばれたことに、愛子は立っていられなくなった。
恥ずかしがる愛子の顔を、矢田はクイッと上に向けさせキスをした。
愛子は驚きのあまり、目を閉じるの忘れ矢田の顔を見つめた。
キスを終えた矢田は、愛子の首筋に触れながら
「愛子は、目を開けてキスをするのが好きなのか?」
と小さく笑んで、愛子のおでこに軽くキスをした。
矢田からの不意のキスに、暫く愛子は夢見心地のまま佇んだ。
そのソバで矢田は、愛子がまた落としてしまった書類を拾い上げ、自分のデスクの上に置いた。
「さぁ、帰るぞ」
呆然とする愛子に、矢田は肩を抱くようにして頭を撫でた。
そして、愛子の耳元で囁いた。
「早く、帰る準備をしなさい」