Refresh
村田篤は黙々とパソコンのキーボードを叩いていた。白基調の壁紙に覆われた味気ないフロアでは、村田の他にも20人ほどの社員が、同じようにパソコンの画面に向かっている。電話対応をしている者、コピー機を使っている者なども、もちろんいる。典型的な仕事場の風景である。
村田の動作には無駄がなかった。自らがエクセルソフトを使って作成した表の、しかるべき所に、しかるべき数式や語句を入力していった。仕事に飽きた周囲の社員が雑談を始めるのには目もくれず、黙々と指先を動かしていく。キーボードのありとあらゆるショートカットキーを暗記しているので、マウスはあまり使わない。
この仕事を始めて、今年で3年目になる。村田は、大学を卒業すると共に、大手非鉄金属メーカーに就職した。全国に拠点を構えるこの会社に就職して、大阪の工場に配属になったことは、地元を離れたくなかった村田にとって幸運なことだった。村田はそこで経理部の損益管理課に任じられ、アルミニウム製作部の損益管理を担当することになった。入社して早々、先輩達の仕事ぶりを始めて見たときには、学生上がりの自分と社会人達との間には、圧倒的な実力差があるように、村田には感じられた。しかし、2年以上同じ仕事をしていると、もはや慣れたものだった。もともと、単純作業を効率よく行うことは苦手ではなかった。他の部署の人間と折衝をするような仕事、つまりコミュニケーションの必要な仕事は、未だに大嫌いであったが、独りでひたすらパソコンに向かって、データを集計し、分析をするといった業務は、村田の性に合っていた。ただ、自分のしている仕事が、会社の利益、はては世の中の幸福度に、どの程度貢献しているのかというのは、村田にはよく分からなかった。
画面に映し出された表の空欄が次々と埋められていく。アルミニウム製作部の損益状況を示す表が、完成に近付いてきている。
部屋が寒いことに気付いた。そこら中の窓が開いている。従業員の平均年齢が高いこの職場には、部屋の空気をすぐに入れ替えたがる、俗に言う「換気魔」がたくさんいる。換気魔は村田がもっとも嫌う人種の一つだ。12月にもなったというのに、あんなに頻繁に窓を開けていたのでは、空気の悪さよりも、寒さが原因で体調を崩す者が出てきてしまう。
村田の席のすぐ後ろで、3~4人ほどの先輩社員達が、トラブルでも起きたのか、集まって何やら立ち話を始めた。
「下期予算策定からの実績悪化に歯止めがかからない。お前の担当部はどうだ?」
「うちもやばい。全く客先要望だからって開発費バンバンつぎ込み過ぎなんだよ。そういやアルミニウム製作部もなかなかやばいらしいけどな…」
非生産的な愚痴の応酬だった。村田にはその会話がすごく耳ざわりだった。自分の後ろに、人の気配を感じること自体が煩わしい。自分の周囲に近付いてほしくない。パソコンの画面を覗き込める位置に来ないでほしい。
全てから隔離されて、独りで仕事がしたかった。いや、もっと言えば仕事などしたくない。全てを投げ出して、布団の上で独り、ひたすら寝転がっていたい。
いたたまれなくなった村田は、椅子を引いて席を立ち、フロアの出口に向かった。壁にかかった時計が15時過ぎを示しているのが見えた。フロアを抜け、廊下を歩いていくと、「Refresh Room」と書かれた、トイレの個室を少し広くしたくらいの大きさのブースが、3つ並んで設置してある。真ん中のブースと右のブースは使用中のようだったので、村田は、左のブースに入った。壁に設置されている青と赤のボタンのうち、青のボタンを押す。ブースの中には、そのボタン以外に、ティッシュとゴミ箱が設置されている。他には何もない。
目が疲れていることに気付いた。実家から送ってもらったブルーベリーエキスのサプリメントは、あまり効果が無いようだ。壁に右手をつき、うつむいて、ゆっくりと目を閉じる。背中に巨大な牛ガエルでものしかかっているかのように、体が重い。
ブースに若い女がひとり入ってきた。同じ部署で働く、派遣社員の横井だ。短大卒の23歳で、器量が良く、男性社員からの人気も高いが、仕事中は、「必要最低限の事務作業しかしたくない」というオーラを醸し出している。定時になれば、周囲がどんなに忙しそうにしていても、当然の権利と言いたげに、そそくさとデスクから退席する。
横井は、内側から扉を閉め、鍵をかけた。狭い個室内に、村田と横井の二人きりだ。
村田は横井の肩に両手を添えて、唐突にキスをした。横井はそれを拒むことなく、村田の腰に両腕を回す。狭いブースの中に、粘着質で艶かしい音が断続的に響いた。舌を絡ませながら、互いの体を荒々しく撫で合う。程なくして、二人とも裸になっていた。
村田は、慣れた手つきで、ペニスに自前のコンドームを装着し、横井の性器へとペニスをあてがう。挿入が完了した。極めて事務的な動作だった。村田は腰を振り始める。狭いブースの中なので、二人ともほぼ直立のまま向き合っているような体制だった。互いに声も挙げぬまま、弾力のある肉同士がぶつかり合う一定のリズムだけが、ブース内に響き渡った。
やがて村田は射精を終えた。共同作業はここまでだ。村田がペニスを抜き取ると、二人はそれぞれ、備え付けのティッシュで各々の股間を掃除し、脱ぎ散らかした衣類をまた着直した。身支度が完了すると、二人は軽く会釈を交わし、村田がドアを開けた。個室に二人きりになってから数分間、二人は目を合わせることすらなかった。
ブースの外には、村田が見たことのある、営業部の若手男性社員が立っていた。二人が出るのと入れ違いに、彼はブースの中に入っていった。残りの2つのブースはまだ使用中のようだ。おそらく、勃起にも射精にも時間がかかる、おじさん社員が入っているのだろう。または、仕事をさぼるために、わざと冗長なリフレッシュをしているのかもしれない。
「ごめん、さっきの僕、早かったよね。もう一回、入っとかなくて大丈夫?」
営業社員の入っていったブースを指差しながら、村田は横井に話しかける。射精のタイミングが思いがけず早くなってしまったので、少し気になっていた。横井とのリフレッシュは確か半年ぶりくらいだが、前回も自分は、早かった気がする。相性が良いと言うのか、悪いというのか。
「いえ、全然大丈夫ですよ。それに、まだ結構仕事が残ってるので、戻ります」
横井が答えた。おそらく、定時後には彼氏と会う予定があるので、さっさと仕事を済ませておきたいのだろう。
二人は元いたフロアに向かって歩き始めた。普段そこまで親しくしているわけではない人間とリフレッシュを済ませると、仕事場に戻るまでのこの時間が、妙に気まずくていけない。
「本社のリフレッシュルームにはベッドがあるらしくて、羨ましいね。工場のやつは狭いから、色々自由がきかなくて大変だ」
村田はむりやり話題をひねりだした。
「そうですね。もうちょっと社員の福利厚生のことを考えてほしいものですよね」
取ってつけたような笑顔を浮かべながら、横井が答える。