ピスタチオの猫
「狸寝入りか。いい根性してんな」
「な、ん」
(誰だ、何だこいつ)
(何をしているんだ何を言っているんだ何、)
「棄てられたのか」
黒い髪の毛。乱暴に切り揃えられた短い前髪の合間から、気難しげな眉が覗く。一重の目は、相手を睨み据えるように鋭い。おれの両脇を支えて軽々と持ち上げる腕は、見た目に反して随分と力が強いようだ。
一通り相手を眺めて、自分の置かれた状況を確認して、再度相手を見た。
相手は親の仇でも見るような目でおれを睨むばかりで、その意図は汲めない。
「行くとこ、ねえのか」
あまり口を動かさずに喋る。けれどくぐもっているということはなく、発音は明瞭である。
おれはきっと、酷く間抜けな面をして相手を見ていたことだろう。
こんな人間は知らない。こんなふうにおれを抱き上げて、なんでもないことを何でもないふうに話しかけてくれるなんて、そんな人間をおれは知らない。
(だって、おれは要らないものだ)
(だから棄てられたんだ)
(だから行くところなんてないんだ)
(だから、)
「名前、なんてえの」
「な、まえ」
「そー。お前の」
名前、なんてえの。
眉間に寄せたシワを一生懸命に隠そうとでもしたのか、相手はなぜか情けない顔になって問うた。
おれは持ち上げられた格好のまま、随分と使っていなかったせいで嗄れた喉から声を搾り出す。
名前などないのだと、おれはここに棄てられたのだから、名前などない。おれは要らないものだったから、名前なんてもらえなかった。
そう言うと、相手は急に興味をなくしたように曖昧な返事をして、おれを元の段ボール箱へ下ろした。
両脇を支えていた温もりが消えて、寒い。再び戻された段ボール箱は、それまで気にもならなかったというのに、湿って不快だった。
相手はしばらく俺を見たあと、困ったような顔をして背中を向けた。
(あ、あ)
(また)
あの時もそうだった。おれをここへ棄てていった人間も、同じように困った顔をして、おれに背を向けて去っていった。二度と、おれの前に現れることはなかった。
きっとこの人間も同じだ。あの人間たちと同じだ。気まぐれにおれを作ってめちゃくちゃに壊しておいて、要らなくなったら棄てる。
ならば最初から作らなければいいのだ。どうせ棄ててしまうのなら、最初から、優しくなどしなければいい。
(はやく、どこかへ行け)
(どうせお前も、おれなんか要らない)
(誰もおれなんか要らない)
(おれも、おれなんか要らない)
「チコ」
俯くおれの耳に、奇妙な響きの単語が届いた。
仏頂面をした相手が言ったのだと理解するのに、時間がかかった。
「チコ?」
「名前、お前の」
短い単語でそれだけ言って、相手はおれに背中を向けたまま首筋を掻いた。照れているのかもしれないと思った。
「なまえ」
「やる。んで、寝床もやる。メシもやる」
首筋を掻いていた手が頭へ移動し、短い黒髪を乱暴に乱した。今度は、照れているのだと分かったけれど、相手が何を言わんとしているのかは分からなかった。
「寝床、めし」
聞き取れた意味のある単語だけを反復して、相手の意図を理解しようとする前に、仏頂面がおれを振り向いた。さっきよりも凶悪な面相になっている気がした。照れ隠しというには、いささか厳しい。
「拾ってやるよ、お前のこと」
仏頂面に合わせてぶっきらぼうに告げられた言葉と、差し出された手。相手の顔と宙に浮いたままの手を交互に見て、おれはもう一度「チコ」と呟いた。
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