愛しい体温
7
「こんばんは」
いつも通りドアを開けると、秋人君の泣き声が聞こえたと同時に、莉子の膨れっ面が飛び込んできた。
「ママ、あきとくんがパズル取ったんだよ!」
私は状況が把握できず保育士さんに目を向けると「おもちゃの取り合いで、莉子ちゃんが秋人君を叩いちゃったんです」と言う。
「莉子、叩くのは無しでしょ!」
丁度風間さんが私の後ろから入ってきた。
「秋人、どうした?」
私が一通り説明し、すみませんと謝った。
「子供同士の事ですから。秋人、男なら泣くな」
それでもずっとぐずったままの秋人君と莉子は、今日は手を繋がずに園を出た。秋人君は風間さんに「抱っこ」とせがみ、風間さんは困った顔をしている。
「あきとくん、あかちゃんみたいだよ、だっことか」
莉子、と嗜めるように言うけれど、女の子って皆こんな感じなのだろうな、と思う。自分の方がいかに大人か、知らしめたくて仕方がないのだ。中身は同じ子供なのに。
「パパ、抱っこ」
やれやれ、といった体で「よし、じゃあ一回だけやってやる」と言うと、まるでおもちゃでも持ち上げるみたいに秋人君をひょいと持ち上げ、肩車をした。
それまで泣き顔だった秋人君の顔は一気に晴れて「みてみて、りこちゃん、こんなにたかいんだよ!」と莉子に言葉を落とした。莉子は勿論それが面白くなくて、また膨れっ面をさらす。
持ち上げた時と同じように軽々と秋人君を下ろすと、「莉子ちゃん、おいで」と莉子を呼んだ。
莉子は秋人君と同じようにひょいっと持ち上げられ、風間さんに肩車をしてもらった。
「あぁ、すみません」
私が謝ると「いいんですよ、女の子を抱っこできるなんてないですからね」と言ってケタケタ笑った。
秋人君の上にお子さんはいないと言っていた。二人目を考えたりはしないんだろうかと、ぼんやり考える。もし夫が存命していたら、私は二人目がほしいと思っただろうか。秋人君のように、少し甘えん坊の男の子がいても、いいかもしれない、なんて思う。今や叶わない夢のような話になってしまったが。
「あきとくんのパパが、りこのパパだったらいいのになー」
子供らしい無邪気な言葉が、私にとっては酷く残酷な言葉になる。私は風間さんの方にやっとの思いで目をやると、彼は私に笑いかけ、莉子に「そうだったらいいね」と言ってくれた。
「りこちゃんのママがあきのママだったらいいのになー、だってあきのママ、おこってばっかりなんだもん」
ほっぺたをいっぱいに膨らませた秋人君の頭を撫で「りこちゃんのママも、おうちでは怖いんだぞー」と言うと、秋人君は甲高い声で笑って逃げた。
「子供は自由でいいですよね」
やっと手を繋ぎ始めた二人を後ろから眺めながら風間さんが口を開いた。
「そうですね、言いたい事言い放題ですよね」
顔を見合わせて笑う。やっぱり、夫だったあの人に、笑顔がよく似ている、と思う。全くの別人なのだけれど、笑った時の優しいまなざしと、目尻に出来るしわの形、口角のあがり方がそっくりで、胸が苦しくなる。
「大人っていうのは駄目ですね。とくに結婚しちゃうと、とたんに自由がなくなっちゃいますからね」
風間さんは私の瞳の中を覗き込むようにして言うので、私は目を逸らす事が出来なかった。
「自由、ですか......」
「誰それのパパだから、誰それの旦那だから、まるで会社の肩書きみたいについてくるんですよ。
私は黙って頷く。それしか出来なかった。私は莉子の母であるけれど、誰の妻でもない。何の縛りもないのだ。それが幸せな事なのかどうかは、人それぞれ、異なるような気がしてならない。