魔法使い
嘘じゃない。
ぼくは自分の指の間に、何千何億もの数字を出すことができた。
隣の町の書道教室に通っていた小学四年生のとき、電車の中で、習字道具を股に挟んで、出入り口のドアに凭れていた。吊革にはまだ手が届かなかったから。
自由になった両手は、いろんなことを試してみた。
ガラスに指で字を書いた。自分の息の標しを消すことで、文字を得ることができた。
銀色に光る握り棒をしばらくつかんでから放してみると、惰性のように握り跡が残った。手のひらが息をしていたことを悟った。自分の中の知らないものを実感していた。
それからぼくは右手の親指と人差し指を使って、英語の「C」の文字の反対の形を作って、そのまま思案していた。両指の先端の間を、ちょうど一センチだけ空けてみる。それから、ゆっくり縮めてゆく。五ミリ、三ミリ、……一ミリ。
学校で分数を習った。
十分の一。百分の一。千分の一。
──うん、十分の一ミリメートルね。中屋くん、どのくらいの長さかわかる?
教習の先生が白い喉を見せて微笑む。そうねだいたいね、髪の毛の太さくらいでしょ。
分母が大きくなるほど、数値自身は小さくなる。だから極小極微の数なら、分母は猛烈に大きい値を取る。何万にも、何億にも、何兆にも。覚えたての単位を並べてみる。そのひとつひとつが、全部違う数なのだ。
ぼくはドアに凭れながら、指の隙間を慎重に慎重に縮めてみる。
一ミリの半分。三分のいや五分の一──。指が震える。目が寄ってくる。十分の一。百分の一。千万分の一。それってあり? 離れているのに、指同士がお互いの存在に気づいてくる。いくつの数が指の間で駆り出されたことだろう。もうすぐ指同士がくっつく。数字よ。壮大な宇宙の遣いよ。準備はいいのか。早くしないと間に合わない。ああもう……。
電車がコクンと揺れる。
あ、くっついちゃった。
その瞬間、ぼくの指と指の間には、電車の中には、この世には、幾万幾億幾兆の、さらに無限の数の数字が一瞬で踊り狂ったんだ。
ぼくは自分で自分をすごいと思った。一瞬だけど、自分のこの指で、この世の全部の数字を動員したんだからね。だから魔法使い。
ぼくはすっかり満足して、伊勢若松の駅で乗り換えた。
接していたふたつの指先が、数たちの名残のように、じわんじわんしていた。
習字の先生は上機嫌で朱色の二重丸をくれた。調子いいね、落ち着いた字だよ、ってね。
先生ごめんなさい。でもぼくは、百分の一の輪郭を追いかけるよりも、百分の一という数を考える方が性にあっている気がするんです──。
ぼくはおとなになる前から嘘つきだった。
嘘じゃない。
嘘。
了