歴史の裏側
日韓軋轢の根底にあるもの
日本と韓国・北朝鮮(以降総合して朝鮮と呼ぶ)は様々な問題を抱えている。
朝鮮いわく、日本は豊臣秀吉の出兵から日朝併合など、度重なる侵略を繰り返してきたと。
しかし、それは事実だろうか。
そのあたり、しっかりと考えてみたい。
江戸期、日本は鎖国状態にあったが、オランダはさることながら中国(清国)や朝鮮(高麗)との国交は欧州以上に重要だった。特に朝鮮は朝鮮通信使の記録も多く、大名行列さながらの厳粛さがあったそうだ。大阪の堺などは朝鮮との交易で栄えた港町でもある。
このことを鑑みるに、江戸期の日本は決して鎖国をしていたわけではないことがわかる。
長崎の出島を別にして、日本人が世界と接する地点は実際には多く設けられていた。
今回は深入りしないが、蝦夷との交易も単なる侵略以上のものがあったのである。
では、なぜ日本と朝鮮とが現在これほどまでに険悪な仲になっているのかということに目を向けよう。
実はこれは潜在的な問題であって、日朝間にはかなり以前から確執があったのである。
遡ること1300年以上。日本は朝鮮半島の一国、百済と非常に親密な関係にあり、日本の皇族と百済王朝との間に血縁的な関係があったことはご存じの方も多いと思う。
その百済が、元(蒙古)にそそのかされた高麗と高句麗に敗れ、多くの百済王族や貴族をはじめとする人々が大和国に逃れてきたのである。高句麗は後に高麗に敗れ、残った高麗一国を相手に元は容易く勝利を収め、朝鮮平定となったことも銘記すべきである。
その高麗が英語で表記されてKOREAになっている。
百済の人々にしてみれば高麗は国を奪った敵である。そして百済人は日本の皇族ともつながりがある。
だとすれば、平民出で幕府を開けない身分だった秀吉が朝鮮出兵で朝廷や貴族からの得点稼ぎをしたとはいえないだろうか。そして趣を異にするが、満州よりも先に朝鮮を併合した大日本帝国の思惑も見えてくるような気がするのである。
先の百済対高句麗、高麗の戦いで有名なのは、白村江の戦いであろう。
この戦いでは大和・百済軍は完敗し、それで雌雄が決したと言っても過言ではないだろう。
日本においても韓国や朝鮮に対して親密感を感じる人も多いし、私もその一人である。一方韓国においても日本に親密感を抱いている人が非常に多いのも事実である。
日本が単一民族ではないのとは違うが、朝鮮半島では百済、高句麗、高麗の複合文化であるが故に、日本に対する感情は非常に複雑になっている。
最後に、日本が度重なる朝鮮出兵を試みたのは、百済人の郷愁のなせるわざだと考えるのは、私のうがちすぎだろうか。
ユダヤの民が二千年もの時を経てイスラエルを建国したように、民族の怨恨はかくも深いものだと思うのは、考えすぎだろうか。
<章=第二次大戦と大東亜戦争>
普通、日本史で習う名称は第二次大戦と太平洋戦争。
しかし「太平洋戦争」という名がアメリカ側の名前だということを知らない人は意外と多い。アジア(特に日本)における正式名称は「大東亜戦争」。主に中国、東南アジアから北オセアニアにおいて戦われたわけであるから、太平洋に限られたものではない。遠くビルマやインド、内モンゴルや黒竜江でも戦闘があったのは周知のこと。
太平洋戦争と大東亜戦争の最大の相違はそれの発生時期にあるが、ここでは詳述はしない。
日米開戦に到ったものとして、日本をして対米戦争を決意させたものとして“ハル・ノート”が挙げられるが、これが非常な曲者だったことは知る人ぞ知るである。
日本は経済封鎖解除を条件に中国や東南アジアからの順次撤兵を具申していたにもかかわらず、ハル・ノートには経済封鎖解除には一切触れずに即時撤退が要求されていた。
その文面は、“全ての占領地域アジア及び中国からの撤退。中国の正式な政権としては蒋介石のみを認めること”。
ここで注意しなければならないのは、「(全ての)中国」からの撤退である。
ここにはすでに建国されていた満州国は敢えて述べられていないのである。また日清戦争後の譲渡である台湾や朝鮮半島にも触れられていない。
なぜか?
歴史においては、何がなされたかと同じくらい何がなされなかったかも重要である。
アメリカとしては、共産勢力が中国を超えてアジア全体に広がるのをよしとしなかったのである。日本をして満州、朝鮮、内モンゴルを対共産勢力の防波堤を形成させるのが、アメリカが直接手を下さずに資本主義陣営保持に利益となるからである。
故に、資本主義(欧米列強)諸国は日朝併合も満州国樹立にも強硬には異を唱えなかったのである。