掴み取れない泡沫
4.久野智樹
塁は夢を叶えたんだ。フランスの師匠と連絡を取り合って、イラストや絵画の仕事をするらしい。他人事ながら誇らしくて、「すげーよ、マジで」とそこに座る塁の頭を無意識に撫でていた。色素の薄い髪が掻き乱される。されるがままの塁に気づき、俺は手を離した。塁の顔が、珍しく引き攣っているのが可笑しくて、嬉しい。
塁には、俺が今付き合っている彼女の事を訊かれた。自分から好きになって付き合い始めたわけでは無い。俺にはたまたま相手がいないから、なし崩し的に付き合い始めたまでだ。その辺、理恵と付き合い始めた状況に似ている。性格も心なしか理恵に近いので、正直扱いに困る場面もしばしばある。
自分から自然に好きになった君枝とは、えらい違いだなと自嘲気味に思う。
「じゃあ、俺が矢部君に手を出しても何の問題も無いんだな」
真っ直ぐに俺を見据える塁の言葉に反論する事ができなくて、俺の首はぎこちなく縦に動く。
「君枝は俺に、何で別れたいのか、はっきり言わなかったんだ」
塁の顔が不意打ちされたように強張った。こいつ、何か知ってる。
「お、シャワー借りんぞ」
それ以上詮索されないようになのか、鞄の中から着替えを取り出して浴室に向かった。
「別れよう、智樹。このままじゃだめだよ」
駅の改札の前で彼女は俯いて、小さいけれどはっきりとした声で言った。アスファルトに向かって、彼女の顔から水滴が垂れた。
「何でいきなり、喧嘩もしてないし、順風満帆なのに? 好きな人でもできた?」
彼女はブンブンと首を降る。黒くしなやかな髪が左右に揺れて、落ちる。
「智樹の足枷になりたく無いの。智樹にはもっと、相応しい人が沢山いる。私なんかじゃ」
「相応しいのは君枝だよ!」人目も憚らず、彼女の言葉を遮って声を張り上げた。切符を買っていたお婆さんが、こちらをチラリと見るのが俺の視界に入る。
それでも彼女は顔をあげないまま、拳を握り締めるその手はか弱い小動物みたいに震えていて、俺が彼女の肩を掴もうとした瞬間、踵を返して改札をくぐって行った。
それから毎晩、会いたいとメールをしたが返信はなく、電話をしても出てくれない。着信拒否されるよりはマシだったかも知れない。
好きだった。今も好きだ。今すぐ元に戻れるのなら、今の彼女を捨てる覚悟はできている。俺が縋って、それで戻ってきてくれるなら、いつ迄でも縋っていたいのに。
「縋ってないじゃん。他に女作ってさ。完全に諦めてんじゃん」
風呂上りの塁に指摘され、もっともな意見に返す言葉も無い。犬がそうするように、髪についた水滴をブルっと振り落とし、濡れていた色素の薄い髪が徐々にいつもの色に戻って行く。
「何で別れたか、俺は聞いた。でも言わない。矢部君は俺が守る。お前に任せておけない」
君枝を見てデレデレしている俺が好きだと言った塁。塁を満足させてやる事なんて容易いと、思っていたのに。
「恋なんて泡沫、なのかね」
塁の哲学的な言葉に俺は首を傾げる。