掴み取れない泡沫
32.矢部君枝
とんとん、と控え室がノックされた。塁と私が残された控え室で、私は重たいドレスを着ていて身動きが取れないので、自然、塁がドアを開ける。
「おぉ、入ってよ」
塁の声で、そこに来た人が誰なのか分かった。彼女は私を見ると目をまん丸に開けて「きれい......」と言って足を止めた。
「あ、ありがとうございます。あの、矢部君枝です。今日はよろしくお願いします」
すっと腕を伸ばし、そういえば手袋をしていた事を思い出して一度それを外した。
「こちらこそ、失敗ないように頑張ります」
ぎゅっと握手をした。本当に、喋り方が塁にそっくりだ。
個性的に短く切りそろえた前髪に、大きな瞳が印象的なかわいい人だった。赤いバルーン型のドレスを着ていて、全てが誂えられたみたいにバランスが良い。
「そのネックレス、奇麗ですね」
彼女の首からさがる、白っぽい石が波打つように形取られたネックレスに目がいく。彼女はそれを触って塁に笑いかけた。
「俺が作ったんだ。初めは矢部君にあげるために作り始めたんだけど、曽根ちゃんに、それって旦那さんはどう思うんだーって言われて。結局曽根ちゃんに告白する時にあげちゃったー」
曽根さんは両手を首の後ろにやり、そのネックレスを首から外すと、白い手袋をした私の手の平に優しく置いたので、それをじっと見つめる。
石のように見えたのは、貝だった。貝特有の、奇麗な色を反射している。貝を囲う金属には、細かく模様が刻まれている。私のために作ってくれた、私を思って作ってくれた。その思いが今度は曽根さんに渡った。それはとても素敵な事で、私はそのネックレスを一度ぎゅっと握りしめ、「ありがとう」と言って曽根さんに返すと、曽根さんは控えめな笑顔を見せた。
「俺と曽根ちゃんのクリスマスイブをぶっつぶすからには、いい結婚式にしろよな」
ぶっきらぼうに言う塁はいつもの塁で、これから結婚式があるなんて信じられない雰囲気だった。
「じゃぁ私はこれで。あとで式場で」
そう言うと曽根さんはドアを出て行った。
「何か、二人、お似合いだなぁ。悔しいけど」
「花嫁が何を言うか、罰当たりが」
私は下を向いて笑うと、悲しくもないのに少し涙が浮かんでいる事に気付いた。
やっぱり塁にはこっちを向いていて欲しかった。でもそれは私のわがままで、塁には塁の人生がある。いつまでも私と智樹の事に構っていては、彼の人生は彼の物ではなくなってしまう。これでいいのだ。曽根さんという素敵な女性と出会えて、塁はこれから幸せを掴んで行くのだ。
そもそも塁には彼女なんて出来ないんじゃないかと、危惧していた。智樹もそう言っていた。だから本当は嬉しいのだ。だけど寂しいのだ。自分の娘を嫁にやる父親の心境ってこんな感じなのかな。自分の結婚式の前だというのに随分とちぐはぐな思考に、苦笑する。
「じゃぁ花嫁さん、行きますよ」
ドアを開けた後藤さんの声に、塁は私の方へ、すっと手を差し伸べた。
それはいつものぶっきらぼうな手の伸ばし方ではなく、笑みを浮かべ、優しく手の平を差し出してくれている。私はそこに白い手袋をはめた手を乗せると、一歩ずつ、智樹が待つチャペルへと歩き出す。
好きだった。今でも好きだ。そんな彼の手に導かれて、愛する夫の元へ歩いて行く。愛している。それ以外の表現方法が見つからない。彼の手から彼の手へ。純白に身を包んだ私は、幸せなバージンロードを一歩一歩歩いて、智樹の元へ辿り着く。
ずっと私を見ていてくれる彼の瞳に安堵し、神の前に愛を誓う。何があってもあなたを離さない。だから私を離さないで。初めて彼と「繋がった」あの日から、箱にしまったままにしてあったペアリングを、やっとこの日、再び指に通す事が出来た。薬指に小さく光る石みたいに、小さいけれど明るく照らされているこの先の私達の未来を想像する。
恋が愛に変わった瞬間、それは実体を持ったように動き出す。私はそれをしっかり掴み取った。きっとこれから、塁の恋も愛に変わり、ぎゅっとその手に受け止める瞬間が来るのだろう。神に誓ったって、星に願ったって、何をしたって、自分から掴みに行かなければふわりとただよってしまう泡沫を、私達は掴み取って前へ、進んで行く。