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掴み取れない泡沫

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2.矢部君枝



 長居駅で電車を待っていた。役所は定時で業務が終わると思ったら大間違い。入庁したての私はまだまだ覚える事が沢山あって、結局今日は十九時まで掛かってしまった。それでも、時々メールをくれる大学時代の友人である加藤君は、「毎日二十二時まで会社にいる」なんて言ってたから、私は恵まれている方かも知れないなと思いながら、列車の時刻表を眺める。あと五分で、電車が到着する。
 ふと、カバンの中から腕に振動が伝わってきたので、手でさぐりさぐり携帯を取り出す。公衆電話......。携帯の機種は変わっても、この文字に見覚えがある。誰からか予想がついた刹那、通話ボタンを押していた。心臓の鼓動が早くなり、頬が上向きにあがって行く感覚は久しぶりだ。
「もしもし」
『矢部君』
 ビンゴ。電話の主はフランスから帰国した太田塁だった。
「塁? 今どこ?」
『駅だけど、矢部君は?』
 自分が立つ駅名なんて分かっているけれど駅の表示をちらりと見遣ってから「長居駅」と告げる。
「もうすぐ電車が来るから。 塁、夕飯食べた?」
『ううん、食ってない』
 頬も気持ちも上向きになり、役所の人には見られたくないデレ顔だという事に気づき、くるりと後ろを向いた。誰に見られているか分からない。
「じゃぁ今からそっち行くから、一緒にご飯食べようよ」
『おう、じゃぁ待ってる。智樹にもメールで知らせといてよ』
 まるで息でも吸うが如く当たり前のように彼の口から出て来たその人物の名前に、胸の奥がズンと痛くなる。
「今日は、いいよ。塁と二人で食べよう」

 塁とは大学の最寄り駅で落ち合い、近くのファミレスに入った。就職してからこちら、オフィスファッションの男性ばかり目にしているので、塁が着ているパーカーにデニムという服装が妙に子供くさく、塁らしく見える。
 お互いメニューを決めてオーダーすると、出し抜けに塁が口を開いた。
「で、何で智樹は誘わないんだよ」
 私は俯いたまま水の入ったグラスに手を伸ばし、引き寄せる。氷が音を立てて動く。
「別れた、んだ。一年ぐらい前に」
 顔を上げなくても塁の表情は想像できた。目を見開くでもない、驚くでもない、ただただ事実を受け入れ、死んだ魚のような目で私を見ているのだろう。
「理由を言いなさい」
 声に全く抑揚がない。本当に彼は変わらない。フランス語もこうしてのっぺりした喋り方をしていたんだろうかと、ふと疑問に思うが、口には出さなかった。
 理由という理由を説明するのが難しい。特に、塁に対してはなかなか説明しにくい事だった。きっと彼は納得しないであろう理由だったから。
「あの、嫌いになったとか、そういうんじゃないんだ。浮気されたわけでもないし」
 無意味に髪に触れながら、まるで言い訳をするように言葉を探す。塁は少し怪訝気な顔をして「簡潔に言え」と押す。
「できなかったの、うん。結局全然最後までできなくて、申し訳なくてそれで別れたっつーか......」
 二人の間に沈黙が流れ、レストランの中の喧噪だけが漂う居心地の悪い時間が過ぎて行った。沈黙を破ったのは塁だった。
「バカチンが。理由にならん。そもそも智樹がそんな事で納得して別れるなんて信じられん」
 腕組みをして難しい顔をする塁は、悩ましげに眉間にしわを寄せている。
「ところで、塁はまたフランスに戻るの? 日本にいるの?」
 がらりと話題を変えようと無理矢理作った笑顔はまるで不細工だったに違いない。
「もうこっちに定住するよ。長居駅の近くに部屋を借りた。そういや矢部君の職場って長居なの?」
 思わぬ偶然に驚き「そうだよ」と目を見開く。
「そっか。今日はとりあえず智樹んち泊まって、明日部屋の鍵を貰いに不動産屋に行く事になってんの。で、この後智樹と合流するんだけど」
「私は帰るから、うん」
 塁の言葉を遮るように早口でまくしたてると、また怪訝な表情でこちらを見遣る。
「会いたくないわけだね」
「そういうわけです」
 ちょうどタイミングよく料理が運ばれてきて、智樹の話からは解放された。


作品名:掴み取れない泡沫 作家名:はち