掴み取れない泡沫
1.久野智樹
携帯電話が着信を告げる振動が、胸ポケットを静かに揺らした。やっと着慣れてきたスーツに目を落とす。ポケットから携帯を取り出すと、表示は「公衆電話」だった。今時、公衆電話から電話をかけてくる奴なんて、あいつしか思い当たらない。俺は一つ大きく呼吸をしてから電話に出る。
「もしもし」
『智樹ー。今日泊めて』
やっぱり。全く抑揚のない声は二年以上経った今も変わる事はない。更にいえば、俺達が出会った、中学時代から変わらないのだ。
「どこにいんの」
『駅』
その駅は、中学、高校、大学があった駅、俺の家の最寄り駅。あいつにとっては「駅」と言えばそこしかないのだ。
「あと一時間ぐらい飯でも食って時間潰しとけ。今から会社出るから」
そう言うと、間の抜けた声で返事が返って来て、乱暴な音とともに電話が切れた。何故か俺の手はぶるぶると震えていて、これは嬉しいのか不安なのか、さっぱり分からなかった。分からないフリをしていたのかもしれない。
会社の外に出ると、少し青臭い葉の匂いがただよっていた。これから暑くなる一方か、そんな事を思いながら駅に向かって歩き出す。