掴み取れない泡沫
16.矢部君枝
今日も十九時越えだ。私が働く五階のフロアは人が捌ける時間が早く、私がフロアを出る時には数人しか残っていなかった。昼間降っていた雨はやんだばかりのようで、窓から見える幹線道路は雨水に濡れて街灯の明かりを反射しているけれど、雨粒は落ちて来ていない。
「じゃぁお先です」
エレベーターに乗り込むと、むっとした熱気が箱の中に充満していた。少し息を止め、一階に到着してドアが空くと、梅雨の匂いがする空気が一気に肺に流入した。守衛さんに「さようなら」と声を掛け建物から出ると、外気温の高さに驚く。初めて、庁舎内に冷房が入っていた事に気付くという鈍感さに苦笑する。
庁舎に隣接する区民ルームの脇に、人が立っている。背格好からして、よく見た事のある人だった。一年前に、その姿を見る事はなくなったのに、塁が帰国してから、その名前を聞くようになり、先日その姿を一度、目にしてしまった。幹線道路に向かう一本道を、ゆっくり進むと、私の気配に気付いたように、ゆっくりこちらを振り向いた。
「よっ」
ひらりと手を挙げる彼は、私の目を見なかった。あの時と同じ、スーツ姿だったけれど、隣に塁の姿はなかった。
「一人?」
そう訊いて足を止めると、智樹は目線を余所にやったまま「一人」と答える。足を止めたは良いけれど、「何しに来たの」なんていう言葉は刺々しいし、とは言え智樹は目線を外したまま口を開かないし、私はどうしたら良いのか分からなくて、歩道を通る自転車の邪魔にならないところに突っ立っていた。
「飯、食った?」
庁舎から出て来たばかりで夕飯なんて食べたわけないのに。彼の苦し紛れの言葉に少し笑った。
「食べてないよ」
「じゃ、この前のあそこ」
中途半端なところまで言って、次の瞬間には彼は歩き始めてしまった。後ろから追うように歩く。夜の砂浜を、追うように歩いたいつかの日を思い出す。もう四年も経とうとしているのか。
無言のまま、駅前のファミレスに入った。
軽快なBGMが不愉快なぐらい、沈黙が続いた。意味もなく髪を触ったり、窓の外を眺めたりして沈黙をやり過ごす。十二分に時間が経過してから「あの、さ」躊躇いがちに智樹が口を開いたので、彼の方を向いた。
「別れてからもう、一年経つだろ。そろそろ教えてくれないかな、ちゃんとした理由。足枷になりたくないって、どういう事だったの」
私が言った一語一句を逃さず覚えているのだろう。足枷になりたくない。確かに言った言葉だった。私は自分の頭の中をしっかり整理し、それからゆっくりと、話し始めた。
「私と付き合ってたって、その、セックスもできないような女と付き合ってるの、男の人にとっては辛いでしょ。だから」
「だからそれはゆっくりでいいって、俺何度も言ったよね?」
語気を強めて言う彼の口調に少し驚き、目を見開く。
「足枷でも何でもない。全部引っ括めて、俺が惚れた君枝なんだよ」
水の入ったグラスに目をやり、何でも良いから縋る物が欲しくて水を一口飲んだ。どうせ塁に吹き込まれたのだろう。世話焼き気質の塁に。
今更何を言っても、もう元に戻れる気がしなかった。私は今でも智樹とセックスができないだろう。これからできるようになる保証もない。彼がそれで満足してくれるとは到底思えないのだ。智樹は、普通よりかっこいいけど、スタイルも良いけれど、中身は普通の男性なのだ。
ただ、戻りたい自分がいるのは確かだった。髪で見えないようにしているピアスだって、毎朝智樹を意識してつけているし、ブレスレットだって毎日見るカバンの中に入っている。ジルコニアのネックレスはいつでも目に入る場所に飾ってある。戻るのなら彼の腕の中に戻りたい。この一年間ずっと思っていた。それでも彼の事だから、とっくに彼女でもみつけて幸せに過ごしているのだと思っていた。だから今更、こんな話をされても頭の中は混乱するばかりだ。
智樹は自分の目の前に水を引き寄せた。その軌跡に、水が這う。
「よりを戻したいんだ。前よりもっと、君枝を幸せにしたい」
言いながら顔が横にぴんと引き攣って、赤くなった顔を俯かせている。変わらないなぁとぼんやり思う。
オーダーした食事が運ばれて来て、智樹はやっと顔をあげた。私は逆に視線の行き場をなくし、ずっとスパゲティに目を落としたままだった。黙って食事をする。そこに食べ物があるだけ良かった。何もなくて沈黙しているなんて、耐えられそうにない。智樹も黙ってカツ丼を食べている。
「塁に、何か言われたの?」
彼は頷くでもなく、首を振るでもなく、箸でカツを掴んだまま手を止めた。
「何かっつーか、そうだな。言われた、かも」
やっぱり塁か。先日このファミレスでニアミスしたのも、完全に塁の仕業だった。加藤君は気を利かせて、すぐに別のお店に移ってくれた。あれから塁に会っていない。しょっちゅう連絡をとっていたのに、とんと途絶えたままだ。あの日、塁と智樹の間で何か、あったのか。
掴んでいたカツを口に運ぶと智樹はもぐもぐと噛みながら胸ポケットを探り、携帯電話をとりだした。
そこには、見慣れた形をした革ひものブレスレットが、ぶら下がっていた。
「これ、持ち歩いてるって聞いた。それからピアスも、いつもしてくれてるって聞いた。全部、塁からだ。塁しか、情報源がなかったから、君枝が俺の事をどう思ってるのか、知るすべがなかったんだよ。塁が帰国するまでの間。連絡も取れないし。分かってたら、俺はずっと君枝にしつこく付きまとって、もう一回振り向いてくれるまで縋ってた。だからこれからは俺はしつこく縋る」
そう言ってカツ丼のどんぶりを持って、勢い良く口にかき込んでいる。
塁がどこからか見ていて、笑っているような気がして、苦笑してしまった。全てを牛耳っているのは塁だ。抱きついて、あの艶やかな栗色の髪をくしゃくしゃにしてやりたかった。こんな風にして、智樹と私の気持ちを遠隔操作するなんて。悔しくて、嬉しくて、視界が曇る。