最期のコーヒー
今回は車がなかった。車を所有する余裕など、既になかった。正午前に出て、電車で三時間、徒歩で五時間。高さ千二百メートルの山を目指していた。
つまり、午後八時頃だっただろう。私は最初の大きな流星に気を取られ、何でもない尾根の径から転落した。だが、幸か不幸か谷底まで滑落することは免れ、恐らく尾根径から十メートル程度離れた急斜面で、露出した樹の根に両手で掴まり、どうにかそれ以上の災難には遭わずに済んだのだった。
両足の下は空洞のように感じた。果てしなく深い奈落への恐怖が、そこにはあった。
夕方に途中の水場で飲んだ湧き水が美味かったことを思い出しながら、私は尾根径を通過しようとする登山者を待った。
「先を輪っかにしたザイルを下ろしますから、それまで我慢してください」
どのくらい経ったのか、唐突に頭上から声と強い光が降りてきた。その暗さの中でなぜ発見されたのか、不思議だった。やがて降下してきた紅いザイルの輪に、私は苦心して自分の胴体を通し、尾根径まで引き上げてもらった。
「お怪我はありませんか?」
顔は見えないのだが、命の恩人はどうやら初老の男のようだった。優しい声だった。
「おかげさまで、手を少し擦りむく程度で済みました。ありがとうございます」
「コーヒーはお好きですか?湧水でコーヒーを淹れましょう。美味いんですよ」
笑顔が見えるようだった。
彼はザックから出したサイフォンに少量の水を注ぎ、フィルターの上に挽いた豆を入れた。
「最初に蒸らすんです。数分待ってから飲みたい分だけの湧水を入れます」
アルコールランプに点火されると実にいい香りが立ち上った。無風状態だからだと、岩角に腰を下ろして待ちながら私は思った。
「蒸らし」が済んでから二人分の水が注がれ、再びランプに点火された。
やがて、ステンレス製らしい温かいコーヒーカップが手渡された。
「頂きます……凄い美味さです。香りといい味といい、感動的ですよ。これは」
私は本当に感動を覚え、鳥肌立つくらいだった。
「下手なコーヒーショップで飲むよりは、余程気が利いていると思いますよ。湧水のせいもあると思うんですが、気圧が幾らか低い分、温度が上がり過ぎないんですね。だから芳醇なコーヒーができると、勝手に分析しているんですがね」
「生涯最高のコーヒーです。一生忘れませんよ。ありがとうございます」
「そうですか。私にとってもそうかも知れませんね……詳しくは云いませんが、私には近々お迎えが参ります」
「……何をおっしゃるんですか。ここまで登って来られたんです。お元気じゃないですか」
「人生最後の登山です。そして、山で飲む最後のコーヒーです。あなたに会えて良かった。感謝しています」
了