(習作)扉
親愛なるメイ。ぼくは今、共に暮らすはずだったこの屋敷で君のことを考えている。引っ越してきたばかりのこの屋敷は、とても不思議な感じがした。ここには侵入者を拒むある完成された秩序があるんだ。そこへ僕が入ることで、その秩序が乱されてしまうように思えた。淡い墨絵に油絵具で色をつけているような、フルートやヴァイオリンの音色で作られた水晶をエレキギターの不協和音のナイフで傷つけているような、そんな気分にさせられるんだ。こちらはまだ寒い。北にある錫色の雲に包まれた山脈から、風が吹き降ろしてくる。雪に囲まれた湖には、渡り鳥たちが羽を休めている。でも、家の中は暖房効いていて快適だ。ぼくたちは都会の時間の流れに身を任せ、時計の秒針みたいにあくせく過ごしてきたけど、それも終わりだと思っていた。そう、これからは、このゆったりとした時間の中で君と暮らしていけると思っていたんだ。春には湖畔の水仙の香りを楽しみ、夏がくれば河で鮎と戯れる。秋は山が紅に染まるのを眺め、冬は深々と降り積もる雪の中で、冬眠中の熊のように家の中で夢をみる。そして、雪が解け、再び春がくる。そんな、牧歌的な暮らしが来るものだと思っていたんだ。
でも、一点だけ困ったことがあった。最初はたいしたことがないと思っていた。でも、その瑕疵は致命的なものだったんだ。以前一緒に下見に言ったとき、君が気に入っていたこの館の扉だ。そう、真鍮製のノブが付いた、この重厚で、表面に彫刻が施されていた樫材の扉。いや、扉自体が問題ではないんだ。だけど、この館の廊下は緩やかな弧を描いていることは君も覚えているだろう。その廊下には等間隔に同じ形をした扉が並んでいる。すると、自分がどこを歩いているのかときどきわからなくなるんだ。君の好きなフランス産のワインとリコッタを買出しにいくため、外へでようとしたとき(君が来る春にはちょうどいい頃合になっていると思ったんだ)、何度も間違った部屋の扉を開けてしまった。自分の何十倍もの大きさのバームクーヘンにもぐりこんだ。ネズミみたいな気分だった。そう、ぼくが君に伝えようと手紙を書いているのは生活のことではなく、このネズミのことだ。このことはやはり伝えておかなければいけないと思ったんだ。
引っ越してからおよそ一週間が経ったころだ。この屋敷の中は全部見たつもりだったのに、一つだけ手付かずの部屋があることに気が付いた。ぼくの部屋から時計回りに廊下を進んだ先にある五つ目の扉だった。そこは、紺色の絨毯が敷かれ、ロココ調の家具がおいてあった。ソファーに腰掛け、テーブルに刻まれた模様を指でなぞりながら、どうして、この部屋の存在に気が付かなかったのか考えを廻らせた。このときは単に、円状になっている廊下のせいで、ほかの扉と勘違いしたままだったのだと納得したんだ。でも、しばらくしてこれは僕の勘違いなんかではないことに気が付いた。実は、この屋敷の部屋は増えているんだ。嘘じゃない。このときは、屋敷の中には確かに十五部屋しかなかった。三日後にまた、入ったことがない部屋が見つかった。もう一度部屋の数を数えてみると、今度は十六部屋あった。ぼくは今まで入ったことのある部屋に目印のために本を置いていくことにした。ガルシア・マルケス、ポー、ボルヘス、ベンジャミン・フランクリン、コナン・ドイル、アリストテレス、プラトン、コルタサル……雑多なように思えるけど、その部屋の雰囲気に合った選択にしたつもりだ。
ぼくは、これから始まる君との暮らしのためこの屋敷の生活に慣れようとした。奇妙に思えたが大きな不自由は感じなかったんだ。しばらくして、赤みがかかった壁の部屋と灰色の壁紙に飾られた部屋が増えた。それでも、何度か扉を間違えることがあっても、最後には目的の部屋に何とかたどり着くことができた。この頃のぼくが抱いていた唯一の希望は、やがて扉の増殖が止まるだろういう期待だった。それに、ぼくたちが選択したここでの生活が、始まる前に崩れさってしまうのはどうしても避けたいという気持ちがあったんだ。
でも、これ以上はもう駄目だ。扉の増殖がどうしても止まらないんだ。とうとう、ぼくの本棚が空になった。そう、空になってしまった。このゼロと一との間には絶望的なほどの溝がある。そう、本が一冊でも残っている間は、この扉の増殖が止まる希望を、心のどこかに抱くことができた。だけど、それが零になったという事実は、これからもそれが延々と増えていく事実を意味している。この前部屋が増えてから、二週間は何も起きなかった。だから心のどこかで、もうこれ以上は増えることはないかと希望を抱くことができた。でも、駄目なんだ。百の扉は止まることなく百一の扉になってしまった。これは、百一の扉が百二になり、次に百三になり……いつかは千を超えていくということだ。朝起きるたび、扉を開けまわり、洗面所を探した。昨日は部屋をでて時計回りに十四番目の扉、今日は廊下を反時計回りに周りながら二十一番目の扉だ。食料は台所にあるはずなのだが、そこの扉は今もどこにあるかがわからない。
なあ、わかるかい。この家の中ではぼくは常に迷子なんだ。自分がどこにいるのかわからなくなってくる。これほど不安なことはないんだ。地下鉄の暗いトンネルで今自分の居場所を見失ない、群集の中で一人だけ日付の感覚を喪失し街をさまよいながら感じるような孤独感に包まれているんだ……。もう駄目なんだ。ぼくは、この館で暮らすことは耐えられない。君のアパートに備え付けられている梟の形をしたポストからこの手紙を手にしているとき、ぼくはもうこの館にはいないだろう。ぼくが悪いんじゃない。ぼくは、自分でできることを君との生活を夢見てできる限りの努力をしてきたつもりだ。そう、ここでの君との生活が実現しないのはぼくが悪いんじゃない。
でも、一点だけ困ったことがあった。最初はたいしたことがないと思っていた。でも、その瑕疵は致命的なものだったんだ。以前一緒に下見に言ったとき、君が気に入っていたこの館の扉だ。そう、真鍮製のノブが付いた、この重厚で、表面に彫刻が施されていた樫材の扉。いや、扉自体が問題ではないんだ。だけど、この館の廊下は緩やかな弧を描いていることは君も覚えているだろう。その廊下には等間隔に同じ形をした扉が並んでいる。すると、自分がどこを歩いているのかときどきわからなくなるんだ。君の好きなフランス産のワインとリコッタを買出しにいくため、外へでようとしたとき(君が来る春にはちょうどいい頃合になっていると思ったんだ)、何度も間違った部屋の扉を開けてしまった。自分の何十倍もの大きさのバームクーヘンにもぐりこんだ。ネズミみたいな気分だった。そう、ぼくが君に伝えようと手紙を書いているのは生活のことではなく、このネズミのことだ。このことはやはり伝えておかなければいけないと思ったんだ。
引っ越してからおよそ一週間が経ったころだ。この屋敷の中は全部見たつもりだったのに、一つだけ手付かずの部屋があることに気が付いた。ぼくの部屋から時計回りに廊下を進んだ先にある五つ目の扉だった。そこは、紺色の絨毯が敷かれ、ロココ調の家具がおいてあった。ソファーに腰掛け、テーブルに刻まれた模様を指でなぞりながら、どうして、この部屋の存在に気が付かなかったのか考えを廻らせた。このときは単に、円状になっている廊下のせいで、ほかの扉と勘違いしたままだったのだと納得したんだ。でも、しばらくしてこれは僕の勘違いなんかではないことに気が付いた。実は、この屋敷の部屋は増えているんだ。嘘じゃない。このときは、屋敷の中には確かに十五部屋しかなかった。三日後にまた、入ったことがない部屋が見つかった。もう一度部屋の数を数えてみると、今度は十六部屋あった。ぼくは今まで入ったことのある部屋に目印のために本を置いていくことにした。ガルシア・マルケス、ポー、ボルヘス、ベンジャミン・フランクリン、コナン・ドイル、アリストテレス、プラトン、コルタサル……雑多なように思えるけど、その部屋の雰囲気に合った選択にしたつもりだ。
ぼくは、これから始まる君との暮らしのためこの屋敷の生活に慣れようとした。奇妙に思えたが大きな不自由は感じなかったんだ。しばらくして、赤みがかかった壁の部屋と灰色の壁紙に飾られた部屋が増えた。それでも、何度か扉を間違えることがあっても、最後には目的の部屋に何とかたどり着くことができた。この頃のぼくが抱いていた唯一の希望は、やがて扉の増殖が止まるだろういう期待だった。それに、ぼくたちが選択したここでの生活が、始まる前に崩れさってしまうのはどうしても避けたいという気持ちがあったんだ。
でも、これ以上はもう駄目だ。扉の増殖がどうしても止まらないんだ。とうとう、ぼくの本棚が空になった。そう、空になってしまった。このゼロと一との間には絶望的なほどの溝がある。そう、本が一冊でも残っている間は、この扉の増殖が止まる希望を、心のどこかに抱くことができた。だけど、それが零になったという事実は、これからもそれが延々と増えていく事実を意味している。この前部屋が増えてから、二週間は何も起きなかった。だから心のどこかで、もうこれ以上は増えることはないかと希望を抱くことができた。でも、駄目なんだ。百の扉は止まることなく百一の扉になってしまった。これは、百一の扉が百二になり、次に百三になり……いつかは千を超えていくということだ。朝起きるたび、扉を開けまわり、洗面所を探した。昨日は部屋をでて時計回りに十四番目の扉、今日は廊下を反時計回りに周りながら二十一番目の扉だ。食料は台所にあるはずなのだが、そこの扉は今もどこにあるかがわからない。
なあ、わかるかい。この家の中ではぼくは常に迷子なんだ。自分がどこにいるのかわからなくなってくる。これほど不安なことはないんだ。地下鉄の暗いトンネルで今自分の居場所を見失ない、群集の中で一人だけ日付の感覚を喪失し街をさまよいながら感じるような孤独感に包まれているんだ……。もう駄目なんだ。ぼくは、この館で暮らすことは耐えられない。君のアパートに備え付けられている梟の形をしたポストからこの手紙を手にしているとき、ぼくはもうこの館にはいないだろう。ぼくが悪いんじゃない。ぼくは、自分でできることを君との生活を夢見てできる限りの努力をしてきたつもりだ。そう、ここでの君との生活が実現しないのはぼくが悪いんじゃない。