水滴とノート
君が現れたのは雨の日の午後だ。
僕は通りに面したアパートの窓から、外を見下ろしていた。頭痛のような、違和感を脳のどこかに感じていた。
そろそろ街灯の光がつき始める時間だった。濡れた路面は滑らかな光沢を帯びている。通りを歩く人たちの傘が互いによけ合い、すれ違って行く。無言の世界を眺めているみたいだった。なぜなら僕の窓は、防音の為の特別に分厚いガラスだったから。ピアノに背を向けて、それでも指だけは冷やさないようにセーターの下に入れ、苛々する神経が収まるのを待ちながら、僕は雨を見ていた。
路面電車が停車する。幾人かがそこから降りてきて、次々に傘を開いて歩きだす。その中に君がいる。君は人の肩にぶつかり、長い黒髪を片手で押えて頭を下げた。君だけが傘を持たなかった。点滅する青信号の最後の歩行者となって、君はよろめくように歩く。
上から見ながら、僕の胸に不安が広がる。ともすれば今この目の前で、君の命が消えてしまうんじゃないか。そんな風に思ってしまう。頼りない足取りで君は横断歩道を渡り切る。雨は容赦なく君の上に落ち、たちまち君はずぶ濡れになってしまう。通りゆく人たちは君を無視するか、胡散臭そうに避けて行く。
とうとう君は座り込んでしまう。君が座り込んだのは、僕のアパートの階段だった。
君が知らない人だということはあまり問題ではなかった。僕はほとんど何も考えずに部屋を飛び出していた。ただ君を迎えに行くためだけに、階段を駆け降りた。
濡れた長い髪。水滴が背中に伝っている。僕はその背中に向かって話しかける。でも君は振り向かない。僕の声が小さかったのだろうか。そう思ってもう一度話しかける。でも君は気がつかない。僕は横から廻り込んで君に話しかける。君はようやく顔を上げ、僕を見て初めて驚いた顔を見せる。
僕が差し出したタオルを君は笑顔で受け取る。君の口が「ありがとうございます」と動く。でもそこから声は聞こえない。ようやく僕は気付く。僕は身ぶりで君に話しかける。良かったら部屋で温かい物でも飲んでいかない? 無茶だと思いながらも、僕はそう言っている。
君は驚いて目を見開き、僕を見る。僕は、敵意も悪意もないことをどうしたら伝えられるのか必死になって考える。でもただ笑うことしか思いつかない。なんて説得力の無い方法だろう。でもだからって他に何が思いつくわけでもない。
君は立ちあがる。タオルを僕に返しながら会釈する。ごめんと僕は言って、立ち去ることにする。僕が階段を上り始めると、後ろから君がついてくる。思わず振り返って、僕は君の手を取ってしまう。それがまた君を驚かせてしまうけれど、君は笑いながら、階段を上ってついてくる。
僕は部屋のドアを開け放しておく。怖くなったらいつでも君が逃げられるように。両手を横に広げてその意味を伝えようとジェスチャーで示すと、君は笑って何度も頷き返してくれる。
ココアでいい? と尋ねると、君は頷く。君は書く仕草をして僕に訴える。僕はノートとペンを用意する。君は走り書く。
どうして「ココア」?
僕はペンをもらって書く。
ただ何となく。
君はにっこりと笑う。
ココアは私の大好物。あなた、神様みたいね。
思わず僕たちはお互いの顔を見合わせて笑いだす。
ちょっと待っててと僕は手で制し、キッチンへ向かう。慌てる必要はないのに手が急ごうとする。僕はキッチンに牛乳をこぼしてしまう。
鍋を火にかける。牛乳が温まる間にココアの缶を用意する。ふと思う。いつかこの手順さえスムーズに行えなくなるに違いない。この一年を振り返っても、僕の物忘れの頻度は確実に増えている。とは言え今はまだこうして不安を思い出せるほどだから、それほど進行はしていないとも言えるけれど。
ぽーんとピアノの音が聞こえる。ぽーん。人差し指で押さえているのだろう、すごく単純な音色。ぽーん。僕は鍋の中を慌ただしくかき混ぜる。カップを用意しようとして食器棚を覗く。妻が出て行ってから、もうここにはマグカップがひとつしかない。僕は自分用に湯呑を取り出す。
ココアを持って部屋に戻る。君はピアノの椅子に座っている。ぽーん。やっぱり君は人差し指で鍵盤を押さえている。ぽーん。
肩を叩くと君はようやく僕に気付く。振り返った君の目の縁が少し赤い。
悪いことをしたような気がする。聞こえないのにピアノの鍵盤を押さえる君の気持ちがどんなものだか、僕には想像できない。君がもともと音を知らない人なのか、かつては音を知っていた人なのか、それさえも僕は知らない。
鍵盤から指を離すとき、君はさっとピアノを撫でるような仕草をする。一瞬だったけれど、その仕草は僕の目に焼きついた。おそらく君はとても深い思いを込めて、ピアノを撫でたに違いなかった。僕には何も分からないけれど、君の奥深くにはきっと何かがある。それだけは確かなようだった。
ココアを差し出すと君の唇がありがとうと動いたのが分かった。君は両手で包むようにカップを受け取る。指先の爪は短く切りそろえられていて、飾り気がない。君は一体何歳なのだろうと、この時僕は初めて思う。
君はノートにペンを走らせる。
あなたはピアノをひく人?
僕はペンを受け取る。
音大を出たんだけどコンクールは全敗で。ピアノ教室と編曲の手伝いで食いつないでる。
妻とは別れたばかりだったがそれは書かなかった。離婚の原因が少なくとも僕の病気に関わることも。
忘れることは簡単だ。そうしようと思わなくても、僕にはそれができる。それだけが唯一の僕の特技だとも言える。多分近いうちに仕事はおろか、やがてピアノを弾くことすらできなくなる。障害者認定をもうすぐ受けられるけれど、そんなことを君に話したって、君を楽しませることには繋がらない。
君はココアをすする。僕も同じように口をつける。温かい湯気が顔に当たる。
不思議な心地だった。君という人がどんな人なのかまだよく知らないというのに、君と向き合ってココアを飲むということが、なぜだかとても尊い経験のように思われる。このワンシーンが僕の記憶に残らないというのなら、せめてどこかに刻まれて欲しいと、そう願わずはいられない。
向かい側に座る君の濡れた髪。少し赤みが差した頬。笑うたびに浮かぶえくぼ。カップから立ち上る湯気が、僕たちの間に共通する空気みたいだった。きっと僕は忘れる。この日のことも忘れる。君のことも忘れる。いつかすべて忘れる。
君はノートに字を書きこむ。
ありがとう。とても温まりました。
僕は黙って微笑むことでそれに答える。君はテーブルに空になったマグカップをそっと置く。そして少し迷ったようにペンをくるりと回し、字を書く。