終わりの余韻~時代小説の楽しみ方~
おすまか草を摘んで来ておりよに植えさせたことを、ふと思い出す。あれがこれだったのだろうか。しかし、それら享年も咲いていたはずだが、おりよは気づかなかった。おすまの世話に掛かり切りで、周りのことが眼に入らなかったせいかも知れない。
二尺ほどに伸びた野濃菊は、秋の陽射しを受け、黄色を際立たせていた。それは順蔵が自分に礼を述べているようにも思えた。
順ぞうは花の好きな男だったから、なおさらそう思えたのだろう。
「この花が好き・・・・・・」
呟いたおりよに、おさは「あたしも」と相槌を打った。〟(本文より抜粋)
失って初めて判る、知る、その人の大切さ、価値。図らずも義姉おさも嫁おりよも、おすま
がいなくなっ初めて気づいた。
この作品もなかなか味わいのある終わり方をしている。
本作品集は人と人の繋がりを描いているが、何も家族だけではない。
最後の〝振り向かないで〟では、大好きな幼なじみの女友達の亭主と図らずもわりない仲になり、後ろめたさに悩む女の気持ちが克明に描かれている。
人と人の関わりといえは゛、やはり、家族愛だけではなく、男女の間の情愛も入る。
なかなか男との関係を断ち切れず、やっと断ち切ろうとした矢先、親友の父親が亡くなる。
その葬儀に参列した女はかつての男と再会する。野辺送りの行列に加わっていた男が女の方をふり向こうとした時、幼なじみである女房が語気も鋭く亭主をたしなめる。
お前さん、ふり向かないで。
そのひそことを聞いた瞬間、女は友達が自分と彼女の夫と関係を知っていたのだと悟った。
男と別れた女は、若い時分に女房を失った男やもめの大工と付き合うようになった。
物語の終わり、その大工に手製のうどんをふるまいがら、女は考える。
〝「留さん、お昼まだでしょう? うどんでも拵えるよ。中に入って」
おくらは、そう言って留次を促す。肯いた留次の顔が嬉しそうだった。外は間もなく雨になり、半刻後には本降りになった。
無心にうどんを啜り込む留次を見ながらおくらは、おけいの言葉を思い出した。そして胸の中で「もう、振り向かないで」と、自分に言い聞かせていた。雨はなかなか止まなかった。〟
(本文より抜粋)
良い物語は心を潤してくれる。乾いた土に水がしみこみ癒やしてくれるように、生きる活力を与えてくれる。
音楽、映画、ドラマ、小説、ジャンルは問わず、こういった作品との出逢いが時としてある。
宇江佐さんの作品に、私の作品の原点があると言うのは、あまりにもおこがましすぎて、到底口にすらできない。だから、私はこう言いたい。
宇江佐さんの作品に、私の書きたい、目標としている作品の原点があると。
その作品に出会えて良かった、読んで元気が出たと言って貰えるような作品を書くのか゜、
小説を書き始めた頃からの私の夢であり目標であった。
無駄に年月だけは重ね、作品の数も増えたが、まだ、その目標には手が届いてすらいない。
初めての単行本〝千姫夢語り〟を出した時、〝灯~ともしび~〟というエッセイを書き、
これからの長い人生を〝書くこと〟を灯火として長い人生を歩いていきたいと語った記憶
がある。今もその想いはまったく変わらない。
書くことは私にとって何より自分らしくいられる時間である。
時を経るとともに、書くととはけして楽しいばかりではないと知ったし、生みの苦しみも経験した。また、自分の作品を世に問えば、けして愉快なことばかりではないとも判った。
書くという作業は自分と向き合うことでもある。一つの作品を完成させたときの爽快感は
格別だが、反面、書いている最中は常に孤独である。それでも、書くことを止められないのは、やはり、書くことが好きだからだろうし、それが一つの業でもあるのだろう。
色々と小難しいことを書いてしまったけれど、真摯に歩いていきたい。
自分なりに心をこめて一つ一つの物語を紡いでゆきたいと考えている。たとえ、創作世界とはいえ、一つの物語に出てくるひとりひとりの登場人物にも人格があるのだから、彼等にも作者として、生みの親としてのただ厳しいだけでなく、暖かな視点も忘れたくない。
宇江佐さんの作品は久々に、小説を書き始めた頃の初心を思い出させてくれた。
作品名:終わりの余韻~時代小説の楽しみ方~ 作家名:東 めぐみ