終わりの余韻~時代小説の楽しみ方~
久しぶりに時代小説を読んだ。宇江佐真理さんの〝彼岸花〟。最近、私自身、書く作品の大半を現代小説が占めている。もっとも、現代小説を再開して、まだほんの数ヶ月にすぎない。
それまで書いていたのは、〝韓流小説〟である。これは私が勝手に命名したジャンルで、もちろん、そんなものは正式には存在しない。
いわゆる韓流時代劇ドラマのような作品だ。まあ、これも一応は時代小説といえるだろう。この韓流小説を書き始めて、もう三年になる。日本の時代小説と違って、韓流時代小説は、まだ読み手に受け入れられる土壌がてきていない。これは言い訳ではなくて、真実なのである。大体、韓流ブームが謳われて久しいけれど、韓流ファンというのは実は意外な多いようで少ない。
韓流ファンで韓流ドラマを見る人は結構な数ではあれども、その中でも時代劇となると、少なくなる。一部に熱狂的なファンを持つというのが韓流時代ドラマなのである。
そういう背景で、韓流小説を受け入れて貰うというのは、はっきり言うと、至難の技だ。しかし、書きたいものを書かなければ、自分の納得できるものは書けない。
いや、毎度ながら、納得などできた試しはないので、これは誤解を招くから、言い換えよう。要するに、ウケを狙って書いたものは、中身のない空疎なものになりかねない。
また、職業作家であれば、それも必要かもしれないが、幸か不幸か、私はアマチュアなので、自分の書きたいものを書きたいときに書きたいように書けば良い。
そういう恵まれた環境にいる。しかし、それでも、やはり一人でも多くの人に読んで貰いたいという作者魂はある。でも、やはり、書きたいものを書くしかないのだろうと思う。
韓流小説から現代小説へ。実は、現代物は一年に一作書けば良い方だった。それが何故か、ここに至って現代物ばかり書いている。自分でも不思議だ思わずにはいられない。気障な言い方をすれば、今は心のベクトルが現代物に向いているということなのだろう。
しかし、やはり自分の原点は時代物だと私は思っている。どんなジャンルをさすらおうとも、最後はやはり日本の時代物に帰ってきたいし、帰ってくるだろう。
そんな中で、私自身の読書傾向も変わってきた。こんなことを書くと、えっ、この人そんなものを読んでいたのかと言われそうだが、実を言うと、ライトノベル、ロマンス小説が好きだ。もっとも、今、書いている現代物には、その読書癖がかなり投影されて
いるのではないかと思う。
どうも、話がいきなり逆方向にそれてしまった。
これでは、宇江佐さんの作品紹介になそうにもない。
話を戻そう。私は日本人なので、もちろん韓国も好きで韓国史にもおおいに興味があるけれど、やはり、いちばん好きなのは日本史である。
時代物をまた書いてみたいという気持ちが強まる中で、私が久しぶりに手にしたのがこの〝彼岸花〟であった。長編ではなく、いわゆるオムニバス、連作短編集である。
どの作品も心に残ったが、ご紹介するのは第1話〝つうさんの家〟。これは江戸の商人の娘が父親の商売がたちゆかなくなり、店を畳むに際して、遠縁の老婆に預けられる。父母は大阪にいる兄を頼って再起をはかるため、娘はしは゛らく預けられることになった。
曲がりなりにもお嬢様として使用人たちにかしずかれて育った少女か゛ある日突然、江戸から遠く離れた田舎、しかも山奥の一軒家で老婆とふたりきりで暮らすことになる。
当然、少女には不満がたまる。しかし、つうさんという老婆は淡々と日々を過ごし、少女を労りながら、これまでどおりのつましい暮らしを続ける。
ある日、つうさんが風邪で高熱を発した。それは、つうさんの作ったものをふもとの村や町に売りに行った帰り、雨にあったからだ。少女は、つうさんを途中から放り出してひとりで先に帰った。そのことを後悔した少女は夜中にも拘わらず、薬を煎じて飲ませ、かいがいしく看病する。
そのとき、気づいたのだ。つうさんがいなくなったら、自分は一人になってしまう―。
以来、少女とつうさんの距離はぐっと縮まった。
やがて、両親が大阪から迎えにきて、少女は高齢のつうさんのことを案じながら、山を去る。後に、彼女は、つうさんが実の祖母であったことを知った。つうさんは元は武家の奥方であったのに、商人と密通し、少女の母を身ごもった。それから家を出て山奥に暮らすようになったのだ。れきとした武家であったつうさんには〝つるぎ〟という
立派な名前があり、長刀の名人であったという。少女がその事実を知ったのは、つうさんが
亡くなってからであった。
少女がつうさんと別れてから、2年後、つうさんは一人で静かに世を去った。
〝どうして言えなかったのだろう。おたえはあの時の自分が恨めしい気持ちだった。
もっと大人だったら、つうさんの事情をお慮り、決してつうさんの傍から離れなかったはずだ。〟
成長して既に祝言も決まった少女が悔いるところで、物語は終わる。
何とも余韻のある最後である。
また、つうさんという一人の女性の潔い生き方も強く心を打った。
物語中で、つうさんが少女に話すところがある。
いくらお金持ちで贅沢ができても、夫がたくさんの他の女と関わりを持っていたら、ちっとも幸せなんかじゃない、と。
つうさんが武家の妻女であったとき、夫はたくさんの妾を置いていたという。
何故、つうさんが町人の男と関係を持ってしまったのか。
少女は後に、つうさんのあの言葉が何よりその理由を物語っていたことに気づく。
つうさんは恐らく淋しかったのだろう、少女は思うのだった。
次に心に残ったのは第5話〝濃紺菊〟。
ある中年女が夫を失った。残されたのは夫の姉夫婦と認知症の姑。
女に子どもはいない。今更、実家に戻ることもできないが、さりとて、義姉夫婦と同居を続けるのも気が引けるし、ましてや、ぼけた姑の介護はしたくない。
迷う女が姑の世話をしている中にふと気づく。
もしかしたら、おっかさんは淋しいのかもしれない。
認知症がどんどんひどくなってきて、夜中の奇声や昼間の徘徊にほとほと手を焼いていたが、試しに姑と一緒の布団で眠ってみた。すると、姑はいつものように夜半に怯えて騒ぐともなく、朝まで眠ってくれる。そこで、ああ、おっかさんはやはり淋しかったのだなと、女は悟るのだ。
その姑がある日、突然、姿を消した。義姉ともども女は大慌てで江戸の町中を探し回る。幸いにも亡くなった亭主の友達が見つけて駕籠に乗せて送り届けてくれたので、事なきを得た。その時、かえってきた姑が手にしていた雑草を無造作に差し出す。
これを植えておいておくれと言われ、女は仕方なく家の庭に植えた。
やがて、時は過ぎ、姑は盆前にひっりと逝った。
あんたがおやり、いえ、お義姉さんがと互いに言い合っては険悪になっていた姑の世話もする必要がなくなり、女も義姉も気が抜けたようになった。
葬式も終えたある秋の日、義姉と女はふたり、庭を眺めている。それが、最後のシーンになる。
〝紺色といより、紫色がかった花は真ん中に筒状の黄色いい芯をつけてい。鼻を近づけると、爽やかな香りがした。
それまで書いていたのは、〝韓流小説〟である。これは私が勝手に命名したジャンルで、もちろん、そんなものは正式には存在しない。
いわゆる韓流時代劇ドラマのような作品だ。まあ、これも一応は時代小説といえるだろう。この韓流小説を書き始めて、もう三年になる。日本の時代小説と違って、韓流時代小説は、まだ読み手に受け入れられる土壌がてきていない。これは言い訳ではなくて、真実なのである。大体、韓流ブームが謳われて久しいけれど、韓流ファンというのは実は意外な多いようで少ない。
韓流ファンで韓流ドラマを見る人は結構な数ではあれども、その中でも時代劇となると、少なくなる。一部に熱狂的なファンを持つというのが韓流時代ドラマなのである。
そういう背景で、韓流小説を受け入れて貰うというのは、はっきり言うと、至難の技だ。しかし、書きたいものを書かなければ、自分の納得できるものは書けない。
いや、毎度ながら、納得などできた試しはないので、これは誤解を招くから、言い換えよう。要するに、ウケを狙って書いたものは、中身のない空疎なものになりかねない。
また、職業作家であれば、それも必要かもしれないが、幸か不幸か、私はアマチュアなので、自分の書きたいものを書きたいときに書きたいように書けば良い。
そういう恵まれた環境にいる。しかし、それでも、やはり一人でも多くの人に読んで貰いたいという作者魂はある。でも、やはり、書きたいものを書くしかないのだろうと思う。
韓流小説から現代小説へ。実は、現代物は一年に一作書けば良い方だった。それが何故か、ここに至って現代物ばかり書いている。自分でも不思議だ思わずにはいられない。気障な言い方をすれば、今は心のベクトルが現代物に向いているということなのだろう。
しかし、やはり自分の原点は時代物だと私は思っている。どんなジャンルをさすらおうとも、最後はやはり日本の時代物に帰ってきたいし、帰ってくるだろう。
そんな中で、私自身の読書傾向も変わってきた。こんなことを書くと、えっ、この人そんなものを読んでいたのかと言われそうだが、実を言うと、ライトノベル、ロマンス小説が好きだ。もっとも、今、書いている現代物には、その読書癖がかなり投影されて
いるのではないかと思う。
どうも、話がいきなり逆方向にそれてしまった。
これでは、宇江佐さんの作品紹介になそうにもない。
話を戻そう。私は日本人なので、もちろん韓国も好きで韓国史にもおおいに興味があるけれど、やはり、いちばん好きなのは日本史である。
時代物をまた書いてみたいという気持ちが強まる中で、私が久しぶりに手にしたのがこの〝彼岸花〟であった。長編ではなく、いわゆるオムニバス、連作短編集である。
どの作品も心に残ったが、ご紹介するのは第1話〝つうさんの家〟。これは江戸の商人の娘が父親の商売がたちゆかなくなり、店を畳むに際して、遠縁の老婆に預けられる。父母は大阪にいる兄を頼って再起をはかるため、娘はしは゛らく預けられることになった。
曲がりなりにもお嬢様として使用人たちにかしずかれて育った少女か゛ある日突然、江戸から遠く離れた田舎、しかも山奥の一軒家で老婆とふたりきりで暮らすことになる。
当然、少女には不満がたまる。しかし、つうさんという老婆は淡々と日々を過ごし、少女を労りながら、これまでどおりのつましい暮らしを続ける。
ある日、つうさんが風邪で高熱を発した。それは、つうさんの作ったものをふもとの村や町に売りに行った帰り、雨にあったからだ。少女は、つうさんを途中から放り出してひとりで先に帰った。そのことを後悔した少女は夜中にも拘わらず、薬を煎じて飲ませ、かいがいしく看病する。
そのとき、気づいたのだ。つうさんがいなくなったら、自分は一人になってしまう―。
以来、少女とつうさんの距離はぐっと縮まった。
やがて、両親が大阪から迎えにきて、少女は高齢のつうさんのことを案じながら、山を去る。後に、彼女は、つうさんが実の祖母であったことを知った。つうさんは元は武家の奥方であったのに、商人と密通し、少女の母を身ごもった。それから家を出て山奥に暮らすようになったのだ。れきとした武家であったつうさんには〝つるぎ〟という
立派な名前があり、長刀の名人であったという。少女がその事実を知ったのは、つうさんが
亡くなってからであった。
少女がつうさんと別れてから、2年後、つうさんは一人で静かに世を去った。
〝どうして言えなかったのだろう。おたえはあの時の自分が恨めしい気持ちだった。
もっと大人だったら、つうさんの事情をお慮り、決してつうさんの傍から離れなかったはずだ。〟
成長して既に祝言も決まった少女が悔いるところで、物語は終わる。
何とも余韻のある最後である。
また、つうさんという一人の女性の潔い生き方も強く心を打った。
物語中で、つうさんが少女に話すところがある。
いくらお金持ちで贅沢ができても、夫がたくさんの他の女と関わりを持っていたら、ちっとも幸せなんかじゃない、と。
つうさんが武家の妻女であったとき、夫はたくさんの妾を置いていたという。
何故、つうさんが町人の男と関係を持ってしまったのか。
少女は後に、つうさんのあの言葉が何よりその理由を物語っていたことに気づく。
つうさんは恐らく淋しかったのだろう、少女は思うのだった。
次に心に残ったのは第5話〝濃紺菊〟。
ある中年女が夫を失った。残されたのは夫の姉夫婦と認知症の姑。
女に子どもはいない。今更、実家に戻ることもできないが、さりとて、義姉夫婦と同居を続けるのも気が引けるし、ましてや、ぼけた姑の介護はしたくない。
迷う女が姑の世話をしている中にふと気づく。
もしかしたら、おっかさんは淋しいのかもしれない。
認知症がどんどんひどくなってきて、夜中の奇声や昼間の徘徊にほとほと手を焼いていたが、試しに姑と一緒の布団で眠ってみた。すると、姑はいつものように夜半に怯えて騒ぐともなく、朝まで眠ってくれる。そこで、ああ、おっかさんはやはり淋しかったのだなと、女は悟るのだ。
その姑がある日、突然、姿を消した。義姉ともども女は大慌てで江戸の町中を探し回る。幸いにも亡くなった亭主の友達が見つけて駕籠に乗せて送り届けてくれたので、事なきを得た。その時、かえってきた姑が手にしていた雑草を無造作に差し出す。
これを植えておいておくれと言われ、女は仕方なく家の庭に植えた。
やがて、時は過ぎ、姑は盆前にひっりと逝った。
あんたがおやり、いえ、お義姉さんがと互いに言い合っては険悪になっていた姑の世話もする必要がなくなり、女も義姉も気が抜けたようになった。
葬式も終えたある秋の日、義姉と女はふたり、庭を眺めている。それが、最後のシーンになる。
〝紺色といより、紫色がかった花は真ん中に筒状の黄色いい芯をつけてい。鼻を近づけると、爽やかな香りがした。
作品名:終わりの余韻~時代小説の楽しみ方~ 作家名:東 めぐみ