冬の夕焼けに注意
彼女の溜め息に、殺意は覚えなかった。むしろかわいらしいと思ったくらいだ。どこか棘のあるその言葉も、彼女が使うからこそ嫌な気分にならない。きっとあの女医が彼女と同じ事を言ったなら、僕はもう二度とあの病院へは行かないだろう。
言葉からのダメージをまったく受けなかった僕は、アピール、と口の中でその一言を転がしてみる。アピールしたのだろうか。自分はおかしくないということを。至って正常であることを。
たぶん、それは違う。僕は自分がおかしいとか、狂っているなんて思っていないし、実際に自分は正常だと思っている。それは間違いのない評価であり確定事項だ。誰が評価して確定したのかというと、結局は自分で、なんだかんだ言って自分しか信じない僕は、自分が一番正しいと思っている。口先では謝っていても、根底では謝罪の気持ちなど塵ほどもない自分がいる。けれど自分と相容れないものを片っ端から突っぱねていっても、現実社会ではやっていけないということは十分承知なので、表面上は笑っておく。謝っておく。
「別に、おかしくないと思うけど・・・・・・」
「そんなこと言って」
彼女はきっと、僕がおかしいと言いたいのだろう。残念ながら、彼女の判断は間違っている。そう見えるだけで、僕はどこもおかしくない。おかしい奴だと思われるのを僕は最も嫌っているのだけれど、彼女に何を言っても無駄だ。今みたいに、またそんなこと、と言ってにこっとして、おしまい。敵意も悪意も何もない。それは彼女の思いつき、もしくは彼女の中の僕に対する評価だ。本当はそれも嫌で仕方がない。けれど他人の意見を変えるのは難しいことだと僕はよく知っているので、あえて変えようとは思わなかった。
外の夕焼けは赤みを増していく。この赤みが引いたら、次は紫色が下りてくるだろう。本当にきれいで、死にたくなる。秋と冬の夕焼けは格別で、決してベランダに出て見たりしてはいけない。死にたくなるのに、死んではいけないとどこかで思っている。死にたいのか死にたくないのか、自分でもよくわからなかった。
渋滞にはまったようで、車はさっきのようにスピーディに走らなくなった。彼女は退屈そうにシートにもたれてしまう。ハンドルには右手を添えるだけ。運転席と助手席の間のコップホルダーを、左手が何かを探して動き回っている。
僕が煙草の箱を掴み、その中から一本摘んで取り出してやると、彼女は紅い唇を薄く開いた。その隙間に、煙草を滑り込ませる。左手が空いているのに僕にそういうことをさせるのは、彼女は自分の魅力をよく知っているからだ。その証拠に、僕はまた窓枠に肘をつき、外を眺める。自分の照れた顔を見せるのも、僕は嫌いだ。
「今日の夕日はどう?」煙の香りとともに、彼女が訊いてくる。
「きれいだね」
「じゃあ、今日の私は?」
「夕日よりはきれいだ」
「死にたくなっちゃった?」運転そっちのけで、彼女が顔を近づけてくる。
「そうだね・・・・・・、本当に」
「かわいいなぁ、もう」
首もとに息が吹きかかり、僕は首筋を押さえて彼女を見た。切れ長の瞳はいたずらな光がちらちらしている。真紅の艶やかな唇は、僕が自分を見失うまで虜にする。
彼女はきれいだ。
人間で唯一、僕に死にたいと思わせるのだから。
薬の袋がふと視界に入る。全部飲んだら死ぬだろうか。興味があるので、今夜試してみようと思う。最高に美しい彼女を見た後で。
その紅い唇が、僕の乾いた唇に触れる。いつもの感触。一瞬だけ漂う、甘い香水の香り。
自分の唇についた彼女のルージュを人差し指でそっと拭うと、窓の外の夕焼けとそっくりな色をしていた。
僕を、死への願望へとまた一歩、進ませる。