冬の夕焼けに注意
どうして薬を飲みすぎてしまうのかと訊かれたので、足りない頭で必死に考え、考えた結果、現実逃避だった。けれどこれは「どうして薬を飲みすぎてしまうのか」の問いに対する答えではなくて、その問いにいかに正常な人間らしく返答するかを考えた結果だった。つまり嘘。別に現実逃避が目的でもなんでもない。目的なんてない。
僕の正面に座った女医は、小さく口を開ける。その薄い唇の間からこぼれた溜め息を、僕は見逃さなかった。これだからこういう奴らは、と言いたげな溜め息。その動作に苛立ちを覚えても、何か行動を起こそうとは思わない。その代わり、切れ味の良いナイフをそっと取り出して、女医の胸元にえぐり込ませる。柄まで、ずっぷりと。もちろん、心の中で。
もともと、いかれた人間だと思われるのを極端に嫌う性分なので、軽蔑するような女医の溜め息も、白っぽくて薄暗い診察室も、正直なところ我慢がならなかった。けれどここで我慢しなくては、やっぱりこいつはおかしいんだ、と思われてしまう。一挙一動に神経を張り巡らせる。疲れるのはあたりまえ。
女医の、機械みたいに流れていく説明をほとんど聞かずに、僕は頷いてばかりいた。説明を聞いたところで、病院を出る頃には忘れているだろう。昔から、覚えたいことほど覚えられない。もっと気軽に、覚えやすく説明してくれたなら、家に着く頃までは覚えていられるはず。
「はい、OKです」女医がカルテを看護士に渡しながら言った。
早く出て行けという雰囲気が全身から流れ出ていたので、小さく会釈して診察室を出た。ドアの横に掛かったプレートを見ると、内科と書かれている。そう、僕は胃の調子が悪くて内科に通っていたはずなんだ。不眠治療のための睡眠導入剤は、おまけみたいなもの。眠れなくて悩んでいるわけではないのだけれど、早寝をしないといけない日はある。
だから、内科を受信している僕が「どうして薬を飲みすぎてしまうのか」なんて、本来されるべきではない質問。そういうのは心療内科とか、精神科の担当だろう。薬を飲みすぎる癖があると、うっかり口を滑らせた自分が悪いのかもしれないけれど。
待合室には顔色の悪い人しかいなかった。顔色の良い人はここには来ない。みんな同様に青白い顔をして、椅子に座っていた。老若男女のごった煮。この中では、僕が一番まともなのではと思う。他の人たちは、どこか異様な雰囲気で、生気がまったくない。死んだ魚の目をしている。
会計のプレートが掛かったカウンターでお金を払って、薬を受け取った。胃薬と、睡眠導入剤。きっちり十四日分。受付の女の子が、お大事に、と僕に微笑みかけたので、僕もそっと微笑み返した。彼女の後ろにいた別の女の子も、振り向いて僕を見ている。自分の容姿に対する僕自身の評価は、いつだって的確だ。外見だけでなく、中身の自己評価だって間違っていないと信じている。
自動ドアを抜けて外へ出ると、すっかり夕暮れ時で、風も冷たかった。コートを車の中に置いてきてしまったので、体が一気に冷えていく。病院に面した幹線道路は混み始めていた。
どこか絶望的な気分にさせる冬の夕焼け空を見上げながら、僕は車が置いてある場所まで歩いた。きれいなものを見ると絶望的な気持ちになるのは、僕だけだろうか。修学旅行で行ってきた沖縄。クラスで万座毛へ訪れたとき、あの絶壁から飛び降りたくなったのは、きっと僕だけではないはず。きれいなものは、人を死に向かわせる。
車が見えてきたところで、僕は彼女の存在を思い出す。ボリュームのあるボアのついた白いコートの裾が風になびいていたからだ。赤い車に寄りかかって、煙草を吸っている。
彼女は僕を見つけると、携帯灰皿に吸いかけの煙草を入れて、運転席に乗り込んだ。車のエンジンが掛かり、低く太いマフラーの音が辺りに響く。道路で信号待ちをしていた車のドライバーが、ガラス越しにこちらを見ていた。
本当は走らなくてはいけないのだろうけれど、面倒臭いし疲れるので、ゆっくりと歩いて車へ辿り着いた。文句を言われるのを承知で、シートに置いてあったダッフルコートを着てからドアを開けて助手席に乗り込む。
「待ってるんだから、走ってよ」案の定、彼女は不機嫌だった。
「何で外にいたの? 寒いのに」
「ずっと座りっぱなしで疲れたの」
車の免許を持っていない僕に代わって、いつも病院まで運転していってくれるのはありがたいのだけれど、小言が多くて困る。この病院の待合時間は長いと伝えてあるのに、それでも彼女は文句を垂れる。それで僕が気を悪くするかといわれたら、そうでもない。
彼女はシートベルトを締めずに、ギアをドライブに入れて発進した。狭い駐車場を徐行する。ふと運転席の足元を見ると、ブレーキの上に載っているのはピンヒールの黒いブーツだった。運転しにくいのは、僕でもわかる。それでも問題なく走行できてしまうのは、経験の差かもしれない。
「医者はなんだって?」道路に出てから、彼女は前を向いたまま訊いた。「ちょっとは良くなってる?」
「忘れた」
「なんでいつも忘れるのよ」
「忘れるような説明をするから」
「ちゃんと覚えてなきゃ意味ないじゃない」
「きみが病院に行けって言うから、行き始めたんだよ」
「市販薬で効かなかったら、そりゃあ病院しかないよね」
通院を始めたのは、僕の意思ではない。常に胃が痛いと言っている僕に、彼女が通院を勧めてきたのだ。僕にとって胃痛なんて珍しいことではなかったし、ここ最近始まったものでもないから、痛いとは言いつつ気に留めていなかった。
薬と一緒にもらった「お薬情報」と書かれた紙を広げて、どんな薬をもらったのか確認する。前回と変わっていないようだ。胃薬は三種類。睡眠導入剤は一種類。たぶん、これを飲んだからといって改善されるわけでもないだろう。要は気の持ちよう。薬を飲んだから安心という気持ちが大切なんだ。
「あ、眠剤ももらってきたの」彼女が横目でこちらを見た。
「どうして薬を飲みすぎてしまうんですかって、訊かれた」
それを聞いて、彼女は声を上げて笑った。びっくりして運転席の彼女の横顔を見ると、彼女もこちらを見ていた。細い眉毛はハの字に歪んでいるけれど、閉じたままの紅い唇が笑っている。どこか艶かしい彼女の唇に、僕は動揺と欲情を覚えざるを得ない。僕よりも三つ年上の彼女からは、大人の香りがする。唇も、同級生のそれとはどこか違うのだ。
赤くなったであろう顔を見られるのが嫌だったので、ドアの窓枠に左肘を乗せて外を見ているポーズをとった。この車は周りの車よりも速い。どんどん積極的に車線変更して、前の車を追い抜いていく。他の車にブレーキを踏ませない走りがベストだと、彼女は以前言っていた気がする。あくまでスムースかつスマートに。
「先生にちゃんと教えてあげた?」
「何を?」
「オーバードーズしちゃう理由」
「オーバードーズって言わないでくれる?」引っ掛かりを感じた僕は外を向いたまま言った。「飲みすぎるだけだよ。それだけだ」
「あんたっていつもそれよねぇ」わざとらしく溜め息をつく。「どうせ先生にも、僕はおかしくないですってアピールしてるんでしょ」
僕の正面に座った女医は、小さく口を開ける。その薄い唇の間からこぼれた溜め息を、僕は見逃さなかった。これだからこういう奴らは、と言いたげな溜め息。その動作に苛立ちを覚えても、何か行動を起こそうとは思わない。その代わり、切れ味の良いナイフをそっと取り出して、女医の胸元にえぐり込ませる。柄まで、ずっぷりと。もちろん、心の中で。
もともと、いかれた人間だと思われるのを極端に嫌う性分なので、軽蔑するような女医の溜め息も、白っぽくて薄暗い診察室も、正直なところ我慢がならなかった。けれどここで我慢しなくては、やっぱりこいつはおかしいんだ、と思われてしまう。一挙一動に神経を張り巡らせる。疲れるのはあたりまえ。
女医の、機械みたいに流れていく説明をほとんど聞かずに、僕は頷いてばかりいた。説明を聞いたところで、病院を出る頃には忘れているだろう。昔から、覚えたいことほど覚えられない。もっと気軽に、覚えやすく説明してくれたなら、家に着く頃までは覚えていられるはず。
「はい、OKです」女医がカルテを看護士に渡しながら言った。
早く出て行けという雰囲気が全身から流れ出ていたので、小さく会釈して診察室を出た。ドアの横に掛かったプレートを見ると、内科と書かれている。そう、僕は胃の調子が悪くて内科に通っていたはずなんだ。不眠治療のための睡眠導入剤は、おまけみたいなもの。眠れなくて悩んでいるわけではないのだけれど、早寝をしないといけない日はある。
だから、内科を受信している僕が「どうして薬を飲みすぎてしまうのか」なんて、本来されるべきではない質問。そういうのは心療内科とか、精神科の担当だろう。薬を飲みすぎる癖があると、うっかり口を滑らせた自分が悪いのかもしれないけれど。
待合室には顔色の悪い人しかいなかった。顔色の良い人はここには来ない。みんな同様に青白い顔をして、椅子に座っていた。老若男女のごった煮。この中では、僕が一番まともなのではと思う。他の人たちは、どこか異様な雰囲気で、生気がまったくない。死んだ魚の目をしている。
会計のプレートが掛かったカウンターでお金を払って、薬を受け取った。胃薬と、睡眠導入剤。きっちり十四日分。受付の女の子が、お大事に、と僕に微笑みかけたので、僕もそっと微笑み返した。彼女の後ろにいた別の女の子も、振り向いて僕を見ている。自分の容姿に対する僕自身の評価は、いつだって的確だ。外見だけでなく、中身の自己評価だって間違っていないと信じている。
自動ドアを抜けて外へ出ると、すっかり夕暮れ時で、風も冷たかった。コートを車の中に置いてきてしまったので、体が一気に冷えていく。病院に面した幹線道路は混み始めていた。
どこか絶望的な気分にさせる冬の夕焼け空を見上げながら、僕は車が置いてある場所まで歩いた。きれいなものを見ると絶望的な気持ちになるのは、僕だけだろうか。修学旅行で行ってきた沖縄。クラスで万座毛へ訪れたとき、あの絶壁から飛び降りたくなったのは、きっと僕だけではないはず。きれいなものは、人を死に向かわせる。
車が見えてきたところで、僕は彼女の存在を思い出す。ボリュームのあるボアのついた白いコートの裾が風になびいていたからだ。赤い車に寄りかかって、煙草を吸っている。
彼女は僕を見つけると、携帯灰皿に吸いかけの煙草を入れて、運転席に乗り込んだ。車のエンジンが掛かり、低く太いマフラーの音が辺りに響く。道路で信号待ちをしていた車のドライバーが、ガラス越しにこちらを見ていた。
本当は走らなくてはいけないのだろうけれど、面倒臭いし疲れるので、ゆっくりと歩いて車へ辿り着いた。文句を言われるのを承知で、シートに置いてあったダッフルコートを着てからドアを開けて助手席に乗り込む。
「待ってるんだから、走ってよ」案の定、彼女は不機嫌だった。
「何で外にいたの? 寒いのに」
「ずっと座りっぱなしで疲れたの」
車の免許を持っていない僕に代わって、いつも病院まで運転していってくれるのはありがたいのだけれど、小言が多くて困る。この病院の待合時間は長いと伝えてあるのに、それでも彼女は文句を垂れる。それで僕が気を悪くするかといわれたら、そうでもない。
彼女はシートベルトを締めずに、ギアをドライブに入れて発進した。狭い駐車場を徐行する。ふと運転席の足元を見ると、ブレーキの上に載っているのはピンヒールの黒いブーツだった。運転しにくいのは、僕でもわかる。それでも問題なく走行できてしまうのは、経験の差かもしれない。
「医者はなんだって?」道路に出てから、彼女は前を向いたまま訊いた。「ちょっとは良くなってる?」
「忘れた」
「なんでいつも忘れるのよ」
「忘れるような説明をするから」
「ちゃんと覚えてなきゃ意味ないじゃない」
「きみが病院に行けって言うから、行き始めたんだよ」
「市販薬で効かなかったら、そりゃあ病院しかないよね」
通院を始めたのは、僕の意思ではない。常に胃が痛いと言っている僕に、彼女が通院を勧めてきたのだ。僕にとって胃痛なんて珍しいことではなかったし、ここ最近始まったものでもないから、痛いとは言いつつ気に留めていなかった。
薬と一緒にもらった「お薬情報」と書かれた紙を広げて、どんな薬をもらったのか確認する。前回と変わっていないようだ。胃薬は三種類。睡眠導入剤は一種類。たぶん、これを飲んだからといって改善されるわけでもないだろう。要は気の持ちよう。薬を飲んだから安心という気持ちが大切なんだ。
「あ、眠剤ももらってきたの」彼女が横目でこちらを見た。
「どうして薬を飲みすぎてしまうんですかって、訊かれた」
それを聞いて、彼女は声を上げて笑った。びっくりして運転席の彼女の横顔を見ると、彼女もこちらを見ていた。細い眉毛はハの字に歪んでいるけれど、閉じたままの紅い唇が笑っている。どこか艶かしい彼女の唇に、僕は動揺と欲情を覚えざるを得ない。僕よりも三つ年上の彼女からは、大人の香りがする。唇も、同級生のそれとはどこか違うのだ。
赤くなったであろう顔を見られるのが嫌だったので、ドアの窓枠に左肘を乗せて外を見ているポーズをとった。この車は周りの車よりも速い。どんどん積極的に車線変更して、前の車を追い抜いていく。他の車にブレーキを踏ませない走りがベストだと、彼女は以前言っていた気がする。あくまでスムースかつスマートに。
「先生にちゃんと教えてあげた?」
「何を?」
「オーバードーズしちゃう理由」
「オーバードーズって言わないでくれる?」引っ掛かりを感じた僕は外を向いたまま言った。「飲みすぎるだけだよ。それだけだ」
「あんたっていつもそれよねぇ」わざとらしく溜め息をつく。「どうせ先生にも、僕はおかしくないですってアピールしてるんでしょ」