ディレイ
その後、智子は西川響介のライブに毎回足を運び、ティーモという名前を使ってインターネット上でコミュニケーションを続けた。他のファンの子の真似をして彼を「響介」と呼んでみる。けれど実際に口に出してそう呼ぶことはない。
私は敵であり、彼の前に現れてはいけない。
『戦略的撤退』は相変わらずのらりくらりとした活動を続けていたが、響介のライブでパワーをもらって、いつだって前向きでいられた。しかし、そんな充実した日々も、そう長くは続かなかった。
二〇一一年二月。二度目の「重要なお知らせ」。今度こそ、ネガティブな内容だった。響介が和歌山に帰るというのだ。
智子はブログのコメントではなく、ウェブサイトの「お問い合わせ」からメールを送った。心の底に沈めていた言葉を、遂に引っ張り上げた。
『響介はメジャーで活躍するべきだよ。そんなに才能があって、使わないなんてもったいない。ちょっとしたボタンの掛け違いなんだよ。その時は必ず来るから。だから諦めないで』
しかし返ってきたメールは、驚くべき内容だった。
『病気をして東京にいられなくなった』
智子はショックに打ち拉がれた。響介が東京からいなくなってしまうこと、それほどの大病を患っていることもさることながら、やはりあの時、響介がグランプリを取るべきだった、と涙した。これでまたメジャーが遠のいてしまう。智子は今年二十四歳。ということは響介も二十四歳だ。もうあまり時間がないように思う。
響介が和歌山に帰ってからも、智子はメールを続けた。響介のあの歌詞のあそこが好き、響介のあの曲のあそこが好き、と他愛のない話題だったが、早く元気になるように祈りながら。
人生で二番目のサプライズは二〇一二年三月に起こった。
いつものように『不思議草』でアルバイトをしていると、店内に響介がいたのだ。智子は思わず運んでいた食器を落としそうになる。
隣には、親友の奈津紀。
『トモちゃん。私ね、彼氏できたよ。西川さんっていうんだけど──』
奈津紀からそう報告を受けた時、響介と同じ名前だな、と咄嗟に思ったが、よもや響介本人だったとは……。
どうして奈津紀は黙ってたんだろう。彼氏もパニック障害だということを。私は世のカップルに苦言を呈することが多いけれど、奈津紀のことは応援するのに。
心のどこかで引っ掛かっていると、翌日奈津紀から電話があった。『黙っててごめん』と消え入りそうな声音で言った。
『私、キョンくんに言ってないんだ。自分もパニック障害だってこと。言えなかったんだ。相手が普通の人ならまだしも、同じ病気の人なのに言わなかったのって馬鹿みたいでしょ? トモちゃんに怒られるな、と思って、それで……』
「怒るわけないじゃない。あれだけつらい想いしたら話せなくて当然だと思うよ。──だけどどうするの? これからも隠すつもり?」
『トモちゃん、お願い! キョンくんには内緒にして!」
「いいけど……、大丈夫?」
『頑張る』
「じゃあさ──」
智子は、いい話だ、とスマートフォンを持ち直す。その打算的な考えに嫌気がさしながらも、「私からも一つお願い、いい?」と思い切って声にする。
「私が『戦略的撤退』のメンバーであること、内緒にして」
一瞬沈黙があっただけで、わかった、と奈津紀は言った。
「最後に一つだけお願いを聞いてもらえませんか」
事務所でマネージャーから『戦略的撤退』の解散を告げられた時、智子は言った。
「星野さんと話をさせてください」
「またそれか……」
「バンドとは関係ない話です」
マネージャーは一瞬怪訝そうな表情を見せたが、「いいだろう」と頷いた。
「ただし俺が伝えるだけだ。用件はなんだ」
「六月十六日に西川響介というインディーズミュージシャンが高円寺の『ポールポジション』でライブをします。星野さんに観てもらいたいんです」
口頭だけでは不安になり、智子はスケジュール帳から一枚破ってメモ書きし、マネージャーに手渡した。
「よろしくお願いします」
響介のライブに、星野は姿を見せた。終演後、奈津紀に「先に帰ってて」と言って、智子は星野の元へ駆け付けた。
「星野さん! 来てくださってありがとうございます!」
「久しぶりだな、智子。──とりあえず出るか」
『ポールポジション』の前の通り、人が多く集まる駅側とは反対側に、二人は落ち着いた。
「大変だったな、智子。お前、これからどうするんだ?」
「星野さんの返答次第です」
「俺の?」
星野は眉間に皺を寄せ、首を傾げた。智子は小さく深呼吸する。第一回全国高校軽音楽選手権大会で、審査員からコメントをもらう瞬間を思い出す。
「どうでした? 西川響介」
「よかったよ」
それだけ……? 智子は俯く。その頭の上に声が落ちてきた。
「面白いミュージシャンだな。彼は売れると思うよ」
智子は、ぱっと顔を上げた。
「星野さんがプロデュースすればきっと売れますよ!」
星野は片方の眉毛だけをふわりと持ち上げた。ややあって、「それで俺を呼んだわけね」と小刻みに頷いた。
「大丈夫だよ。『戦略的撤退』がなくなっても、俺食っていけるから」
そう言って星野は笑った。
「いえ、そういう意味じゃなくて──」
「でも考えてみるよ。マジで売れると思うから」
こんなことをして、響介が喜ぶとは思えない。けれど、自分にできることはもうこれしかないのだ。
響介はメジャーで活躍するべきだ。その考えは七年前から変わらない。
嘘吐き女の言うことなんて聞いてくれないと思うけれど、神様、どうかお願いします。お願いします。お願いします。お願いします──。
「智子さん、こっち。こっちですよ」
店の中央──、特設コーナーの所から声が聞こえた。気付けば、奥の方にあるサウンドトラックのコーナーに、智子はいた。
響介はメジャーデビューした。智子はようやく正しいスタートラインに立てた気がした。
また頑張れる。
「うん。すぐ行く。走って行く」
店の中央に戻り、CDに視線を落とす。
「それでも君は天使 西川響介」
響介のライブの日付を思い出す。まったく、とため息を吐いた。それでも君はミュージシャン、と心の中で呟く。
智子は右手でCDを手に取り、左手で荘太の手を握った。レジカウンターへと、そして歩き出した。