ディレイ
声が大きくなる。「川向こう」とは、和歌山市内を流れる紀ノ川を境に北側の地域を指す。響介の実家は「川向こう」ではないので、やや縁遠いのだが、それでも東京で、同じ県ならまだしも、同じ市の出身者に出会えるとは思ってもみなかったので心底驚いた。
「高校出てすぐこっちに来たから、東京での生活の方が長くなりつつあるけどね。──やめられなくてね、音楽」
「やめたいんですか?」
「夢は追い始めた瞬間から現実になるから、いろんなことに失望しながら歩くしかない」
「──そうですね」
「いよいよ僕の音楽は輝きを失ってしまったってわけだ。要は、疲れたんだよ。だけど、自分は天才だ、という気持ちがある。やめてしまうと、それまでの自分を否定するような気がしてね。だから西川くんのような輝いてる人間に寄生してなんとかやってるんだよ」
「寄生って」
語呂に、響介は笑ったが、一ノ瀬は真顔のままだった。
アコースティックギターの音が鳴った。壁を隔てているため、音がこもっているが、これはCのコードだ。続けて「弾き続ければいいですか?」という声。岸本明日香のものだろう。
「輝いてないですよ。逃げてるんですから」
響介はかぶりを振った。
「逃げてる?」
「関西の、メジャーデビューに繋がるような大きなコンテストで優勝を逃しました。そして俺は自分の実力を認めないで済む方法を取ったんです。それが、上京です」
和歌山を捨てた。なかったことにした。
一ノ瀬が微笑んだ。「それは」と口を開いたその時、楽屋のドア付近から「西川さん!」と木村の声が飛んできた。
「飯、行きませんか?」
「いや、俺はいいよ」
食事はとらないつもりだった。胃の中になにかある、と思うことがパニック発作に繋がる可能性があるからだ。
「じゃあ、いってきます」
佐伯が小さく手を振った。二人が楽屋を出ていく。一ノ瀬が軽く片手を挙げ、その後を追った。
響介はエフェクターケースを閉じると、ズボンの左のポケットから携帯電話を半分だけ覗かせ、時刻を確認する。五時十分。出演時間のちょうど二時間前。自動販売機でミネラルウォーターを買う。ドンペリドンを、そして飲んだ。
(二)
三、四組で構成される列の先頭に、奈津紀たちはいた。
握りしめたスマートフォンで、午後六時になったのを確認する。
「ねえ、入ってもいいかな……?」
「もう六時? いいんじゃない?」
駅の方角に顔を向けたまま、智子があっけらかんと答える。もう、と奈津紀は苛立つ。こういう場所は智子の方が慣れているのだからリードしてほしい。
列に並ぶのは苦手だ。急に後ろの人たちが「早く入れよ」と一斉に心の中で毒づいたような気がして、慌てて鉄扉のドアノブに手を掛ける。なにがあるわけでもないのに、お化け屋敷の警戒心で、『ポールポジション』に入っていく。
「上村奈津紀でチケットを予約しているのですが」
「上村奈津紀さん──、二枚ですね。チケット代、ドリンク代、合わせて五千円です」
五千円札を受付の若いお兄さんに手渡す。すると「はい」と何かを差し出してきた。怪訝に思いながら、受け取る。黄色いプラスチックのコインが二枚。なんだろう、という顔を智子に向ける。
「ドリンクと交換するの」
ふむふむ、と頷きながら、一枚、智子に手渡す。それからもう一度手の中のコインに視線を落とした。
ライブハウスは大人の雰囲気が漂っているのに、子供銀行券のような可愛らしいコインが不釣り合いでおかしかった。
もう一つドアを潜ると、広い空間が目の前に広がった。当然ながら、誰もいない。落ち着かなくて向こう側の壁まで一気に歩いた。今はまだ幕が下ろされているステージに向かって左側。壁に背中をくっつけるようにして立つと、正面にバーカウンターが見えた。
「とりあえずドリンク頼んじゃおうか」
返事を待たず、智子がバーカウンターに向かう。あっ、と思ったが、すぐさま後を追った。記念にコインをこっそり持って帰ろうかと目論んでいたが、それはよくない。
プラスチックカップに注がれたビール。やっぱりお酒は不思議な飲み物だと思う。プラスチックカップに入っているというだけで、おいしくない。だったらやっぱり……、と思いかけて、はたと気付く。徐々に人が増えてきている会場内。ビールを飲んだのは正解だった。
「前の方に行こう。人、集まってきてる」
空になったプラスチックカップをゴミ箱に捨てながら、智子が言った。ステージの方に目を向ける。二十人程度の人集りができていた。奈津紀は目を瞬く。そこに見慣れた人影を見つけた。
「キョンくん」
呟くように言うと、智子が、えっ、という顔で振り向いた。奈津紀の視線を、そして辿る。ややあって、「あっ」と明るい声を出した。
「ほんとだ。あんな所にいる。──行こう、奈津紀」
スキップするような気持ちで、ステージ前に向かう。さあ、声を掛けよう、という距離まで近付いたその時だった。
「響介は何番目?」
足の底が床に張り付いたように、次の一歩が踏み出せなくなる。今のは智子の声じゃない。
響介が奈津紀と智子に気付いて、「ああ」と軽く両手を広げた。
「ようこそ」
「ごめん、取り込み中だった?」
今度こそ、智子の声。
広げた両手を上に反転させて、「いや」と響介がかぶりを振る。
「バイト先の人なんだ。──ほら、奈津紀。この人が手島さんだよ」
背筋に冷たいものを流し込まれたように、いよいよ体全体が硬直する。今、なんて言った? この人が、手島さん? どういうこと?
どうして私──。
響介が手島に向き直り、掌を上にした左手をこちら側に向ける。
「こっちが隣人」
「こんばんは」
手島に向けて智子が挨拶をする。
「こっちの小さいのが彼女」
「可愛いな」
手島が、へえ、という微笑を浮かべながら、奈津紀を見た。笑わなければ。謙遜しなければ。けれど顔面が麻痺してしまったかのように動かない。慌てて頭を下げた。
知らなかった。手島が女性だったなんて。
初めて「手島」という名前を聞いた時、おぼろげに浮かんだものが、どんどんはっきりしたものに変わっていく。
手島。テシマ。ティーモ。
響介が和歌山に帰っている間、メールで励まし続けたのがこの人? 響介を東京に連れ戻したのがこの人?
ごくりと唾を飲み込む。
確かめよう。
ようやく最後の一歩を踏み出すと、手島の顔を横目で見ながら、響介に尋ねた。
「ねえ、キョンくん。ティーモは来るかな?」
「どうだろうな」
あれ? と奈津紀は思う。手島は反応を示さなかった。
──勘違い?
「あっ!」
奈津紀たちだけではなく、近くにいた人たちまで一斉に智子を見る。それくらい大きな声だった。何事? と思っていると、彼女がバーカウンターを指差して言った。
「響介、荘太がいるよ」
見ると、荘太は同じ年齢くらいの男性とドリンクを片手に談笑していた。友達だろうか。
「じゃあ、手島さん。楽しんでいってくださいね」
荘太たちの元に向かおうとする響介に、慌てて声を掛ける。
「キョンくん、ちょっと待って」
開演時間まで、もうあまり時間がない。今しかない。
「はい、これ」