ディレイ
(一)
西川響介は電車を降りた。
西荻窪。
吉祥寺から一駅しか乗れなかった。会場であるライブハウス『ポールポジション』があるのは高円寺だ。あと三駅。無理だ、と響介は項垂れる。汗ばんだ手が大きく震えている。響介はホームの端までとぼとぼと歩くと、その場にしゃがみ込んだ。
携帯電話で時刻を確認する。午後三時五分。入り時間は四時。まだ一時間近くある、とは思えなかった。くそ、と短く発音して立ち上がる。改札口に、そして向かった。
百六十円の切符を自動改札機に投じて西荻窪駅を出た。西荻窪で降りるなら百三十円の切符でよかった。響介は不貞腐れたように新宿方面へと歩き出した。ある程度歩いて、それからタクシーを拾う寸法だ。
西荻窪の隣の駅である荻窪駅を少し越えた辺りで、響介はタクシーを拾った。ギターケースとエフェクターケースを後部座席の奥に押し込み、乗り込む。「高円寺」と覇気のない声音で告げると、「駅でよろしいですか?」と運転手。「北口で」とやはり覇気のない声音で付け加える。
パニック発作は起こったが、電車に比べると軽度だった。無事、高円寺に到着する。千四百三十円を支払ってタクシーを降りた。損な病気だな。
『ポールポジション』は高円寺駅から徒歩十分という立地だ。入り時間に間に合って、とりあえず胸を撫で下ろすが、これからライブだというのに、響介は既に疲れていた。黒い鉄扉が重そうだ。ドアノブに手を掛けようとして、ドアの中央の張り紙に目が行く。
「2012.6.16(Sat.) OPEN 18:00 START 18:30」
その下には出演者の名前が並んでいる。
「岸本明日香 西川響介 スペース☆レンジャー Tokyo Pierrot」
響介が出演する今日のライブは、ライブハウスで最も一般的なブッキングライブだ。ライブハウス側がジャンル、集客力を考慮した上で複数のバンドを組み合わせて対バン形式にしたライブ。響介は「西川響介」の文字に目を留めると、勢いよくドアを開けて、会場内へと足を踏み入れた。
受付で「おはようございます。西川響介です」と挨拶をして、フロアに入る。バックバンドのメンバーは既に揃っていた。ドラムの一ノ瀬、ベースの木村、コーラスの佐伯の三人。入れ替わり立ち替わりして今のメンバーになった。木村と佐伯は、和歌山に帰っている間も連絡をくれた。木村は夜行バスに乗って実家まで遊びにきてくれたり、佐伯は女性らしく手紙を送ってくれたりもした。いろいろあったが、最高の仲間に巡り会うことができた。東京に戻りたい、という動機は、そういった彼らの行動によるところも大きい。一ノ瀬は響介が東京に戻ってきてから新たに参加した新メンバーで、二度リハーサルで会っただけだ。他のメンバーとも同様のはずだが、三人は固まって座り、談笑している様子だった。
「おつかれです」
気心知れた木村、佐伯の二人と、一回り年上の一ノ瀬を前にして、丁寧とも砕けているともつかない中途半端な挨拶になる。荷物を置いて、一ノ瀬の隣の椅子に腰掛ける。それから会場内を見渡した。
キャパシティ二百人という情報に偽りはないようで、学校の教室を連想させるウッディな床のフロアは広い。ステージと反対側、フロア後方には窓ガラスがあり、珍しいな、と思う。通行人が傘をさしていないのを見て、今度は「珍しいな」と口にした。ステージに向き直る。ゆっくりと視点を上に移動させていく。天井が高いのが響介のお気に入りだった。照明が映えるからだ。ライティングが楽しみだな。
なんとなく照明の数を数えていると、その下で動きがあった。四人組のバンドがステージに姿を現し、スタンバイを始めたのだ。響介は入り口のドアの張り紙を思い出す。通常は出演順の逆にサウンドチェックを行っていく「逆リハ」になるので、ステージにいるバンドはおそらく『スペース☆レンジャー』だろう。ボーカル、ギター、ベース、ドラムの四人編成。ちょうどいい。頭の中でステージ上の彼らを自分たちに置き換えて、客席からどう見えるのかを考えながら、ステージを凝視する。
「西川さん」
声に、はっと振り返る。胸に『Paul Position』の文字が入ったTシャツを着ている若い男性が立っていた。ライブハウスのスタッフだ。慌てた口調で「おはようございます」と言いながら立ち上がる。
「おはようございます。これに記入をお願いします」
三枚の紙とボールペンを手渡される。最初の二枚は、ステージの配置、SEの流し方、セットリスト及びPAと照明への注文を書き込むもの。最後の一枚は、チケットの予約者を書き込むものだ。『スペース☆レンジャー』のサウンドチェックをBGMに書き込んでいく。全ての記入が終わると、持参したフライヤー、SE用のCDと一緒にスタッフに手渡した。SEは智辯和歌山の吹奏楽部が演奏する応援曲のメドレーだ。いつかの夏の甲子園県予選で、紀三井寺球場に足を運び、録音し、編集したもの。
「よろしくお願いします!」
元気な声がフロアに響き渡る。『スペース☆レンジャー』のサウンドチェックが終了したようだ。響介は立ち上がった。
「さあ、行こうか」
サウンドチェックが終了すると、ステージの上手から楽屋に入った。
「いい箱だね」
シールドケーブルを八の字巻きにしてまとめていると、一ノ瀬が隣にやって来た。スティックとキックペダルしか持ってきていない彼は、早々に片付けを終えたようだ。
「当たりでした。事前にインターネットで調べて、ここに決めたんですけど、思っていたよりいいです」
機材を抱えてステージと楽屋を行き来しないといけないわけで、楽屋がステージの裏にあるというのは便利だな、と響介も思っていたところだった。楽屋もまた広かった。鏡、棚、ハンガーラック、自動販売機、冷蔵庫が置いてあるのだが、四人が入って、各々片付けができるだけのスペースもある。東京のライブハウスはビルに入っていることが多いのだが、『ポールポジション』は一つの建物で、ゆとりのある設計になっている。一ノ瀬の言う通り、いいライブハウスだ。
「ところで、西川くんは、和歌山出身だったよね?」
不意に、ん? という表情になる。これまで一ノ瀬とは音楽の話──、事務的な内容の話しかしたことがなかった。本番まで時間がなかったというのもあるが、変にプライベートの話をして、人間的に嫌な部分を見つけて、そんなことでモチベーションが下がるのは馬鹿らしいと思い、敢えてそうしてきた。佐伯とも最初はそうだったが、打ち上げを通して馬が合うことが発覚した。木村はそんな佐伯の紹介だったので打ち解けるのは早かった。このタイミングで一ノ瀬とプライベートの話をするのはリスキーではないか、と身構える。「はい」と戸惑いを隠せないまま答える。
「和歌山市です」
空気が悪くならないように咄嗟に付け加えた。それを聞いて、一ノ瀬が、ぱっと表情を明るくした。
「へえ。僕も和歌山市。狐島、わかる? 川向こう」
「ほんとですか」