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 花見を我慢して頑張ったのに、と言える程桜に思い入れがあるわけでもなかったが、真新しいシャツに袖を通したような緑色の木々を眺めながら、無情だな、と智子は思う。
 ふとベンチに座って楽器を弾く青年に目が止まる。井の頭公園ではよく見る光景なのだが、何かがおかしい。──音が聞こえない。よく見ると、青年が抱えている楽器はエレクトリックギターだった。
 智子は怪訝に思う。エレクトリックギターの「生音」はとても小さい。ギターアンプに繋がないのであれば、自宅で練習できるはずだ。どうしてわざわざ──。
「理由があるんでしょうね」
 荘太がぽつりと言った。彼も青年を見つめていた。
「物事の一つ前には必ず理由があります。見方によっては、人は理由に動かされているようにも見えます。あの人がここでギターを弾くのも、何か理由があるんでしょう」
 うん、とも、うーんともつかない間抜けな相槌を打つ。青年との間に距離はあったが、二人で凝視しているのはどうかと思い、さっさとその場を通り過ぎることにした。
 池を縁取るようにして歩く。池の中程の止まり木に、一羽の黒い鳥が佇んでいる。あんな所で何をしているのだろう、と思ったその時だった。鳥が大きく翼を広げ、その姿勢のまま静止した。声にこそしなかったが、おお、と智子は口を開いた。何かのエンムブレムみたいで恰好いい。
「あれは、カワウですね。羽を乾かしてるんですよ」
 またしても荘太が先回りして答える。
「物知りだね」
「絵描きの端くれですから」
 自慢げではなく、恐縮した様子で、荘太は言った。
「ねえ、荘太」
 なんですか、と荘太は穏やかな顔を智子に向けた。智子は「私は」と前方を見つめたまま続けた。
「荘太にプロの漫画家になってほしい。荘太には翼があるよ。飛ばないと、もったいない」
「はい。頑張ります」
 カワウが羽を乾かしている。恰好いいとは、もう思わなかった。
「僕も智子さんのこと応援しています」
 言いながら、荘太が鞄の中を探る。一枚のCDを、そして取り出した。
「それ……」
 智子は目を見開いた。昨日発売になったばかりの自分たちのシングルだ。
「今日CDショップに寄ってから来たんです。帰ったら、早速聴きますね」
 すぐに見つかったのだろうか。店によっては入荷していないところもあるはずだ。荘太は待ち合わせの時間に遅れなかった。早めに出掛けて探してくれたのかもしれない。
「嬉しい」
 驚いて顔が強張っている。上手く笑うことができず、智子は歯痒い気持ちになる。いっそ抱きしめてやろうかと思ったが、音に、衝動が掻き消される。
 鳥の鳴き声が賑々しい。夕刻。井の頭公園に入ってから随分時間が経過している。遠回りしたことは明らかだった。
 井の頭公園の出口である階段に差し掛かった時、荘太が立ち止まり、「あのボート」と池の方を指差して言った。
「あのボートに乗ってる二人。西川さんと上村さんに似てません?」
 反射的に目を細めるが、智子は視力があまりよくなかったので、すぐに諦めて瞼を持ち上げる。シルエットだけで答えた。
「似てるかも」
「でもあの二人はボートに乗らないか。井の頭公園のボートに乗ると別れる、というジンクスがありますもんね」
「カップルはそもそも別れるものよ」
 確かに、と荘太は顎に手をやった。あんな都市伝説を本気で信じていたのだろうか。そう思うと、吹き出してしまった。取り繕うように「でも」と声を掛ける。
「あの二人には別れてほしくないけれど」
「そうですね」
 響介が音楽をする理由はなんだろう。
 空を見上げる。雨雲が出てきていた。綺麗な夕焼けは見えそうになかった。
作品名:ディレイ 作家名:宇城和孝