小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

ディレイ

INDEX|17ページ/39ページ|

次のページ前のページ
 

「だから言いたいんです。戦略的撤退って言葉があるんだよ、って。恰好悪くないんだよ、って。逃げることもまた戦いです。そんなことを気にして、心が死んでしまっては元も子もないじゃないですか」
「心が、死ぬ?」
「例えば、夢や恋の問題に直面して、その夢や恋に対する気持ちそのものを失ってしまうこと。もっと言うと──」
 そこで一呼吸置いた。智子は黙って荘太の次の言葉を待った。顔を少しだけ上げると、なるべく抑揚を殺した声で、荘太は続けた。
「僕、中学生の時、いじめられてたんですよ。まあ、今にして思えば、それ程深刻なものではなかったんですけど。今は自殺しちゃったりする子もいますから」
 智子は静かに頷いた。その所作に、重大な告白をしたことを自覚する。
「僕は、登校拒否や引きこもりになってもいいと思ってるんですよ。死ぬくらいなら、そうするべきなんです。子どもの世界は狭くて、学校がその大半を占めてます。そこでいじめられることは、人生を揺るがす問題です。乗り越えるのは立派なことですけど、最も重要なのは死なないことです」
「そうだね」
「だから大人にも言いたいんです。子どもの逃げ道を作ってあげてほしい」
「荘太は、それを伝えるために漫画を描いてるの?」
 中学生の御前荘太は怯えていた。学校の休憩時間や自習時間が怖かった。先生がいなくなることが怖くてたまらなかった。荘太はチャイムが鳴るや否や教室を出る。休憩時間は図書室に、放課後は家に、脱兎の如く駆けて行く。そんな日々を過ごしていた。
 殴られる。
 学校にいる間は、頭の片隅に必ず入れておかなければならなかった。
 荘太に目を付けた同級生は三人いた。その内の一人は、違うクラスだった。ある日、廊下ですれ違う際、なんの前触れもなく、いきなり殴られたのだ。クラスメイトの二人から殴られるのも理不尽で仕様がないと思っていたところに、顔を知っている程度の人間にいきなり殴られるという出来事は、荘太を大きく動揺させた。
 荘太は目立つことが苦手で、団体行動の中では極力大人しく過ごしてきた。それが一つの答えを提示した。
 自分は嫌われるタイプの人間なんだ。
 荘太は歯を食いしばった。そうして教科書や問題集と対峙した。自分が世間に認められる手段があるとすれば勉強だ。こんな世界から抜け出すんだ。
 一番つらかったのは、「御前もなにか言ったら?」「黙ってるからやられるんだよ」という女子の気楽な声だった。そんな時、荘太はいつも、なにを騒いでいるんだ、という風に平静を装った。それが自身を守る唯一の方法だった。殴られれば、笑顔を見せた。女子の言うように、それが終わらない暴力を生み出していることはわかっていた。けれど、腕力も闘争心も持ち合わせていない荘太には他に手段がなかった。先生や友人、家族に相談することもできなかった。事態が悪化する危惧もあったが、いじめられている自分を他人に認識させたくなかった。
 唯一の明るい希望が漫画だった。父親が漫画好きで、家には漫画が沢山あった。就寝前の一時間は漫画を読むと決めていた。そのおかげで、明日も学校に行かなければならない、という憂鬱に支配されずに済んだ。明日はこの漫画の続きが読める、明日からどの漫画を読み始めようか、その高揚感が荘太を絶望に落とさなかった。
 そして出会った一つの作品。あだち充の『ラフ』である。人を平気で殴る人、異を唱えない第三者、気付かない大人、それらに囲まれて生きる荘太は、人というものに対して失望していた。けれど『ラフ』の登場人物はみんながみんな優しかった。それが荘太を夢心地にさせ、ずっと読んでいたい、ずっとこの世界にいたい、と本気で願うようになっていった。読後は、自分も他人に優しくしたいという感情が芽生えた。
 優しさは連鎖する。
「そうです」
 荘太は智子の目を見て答えた。そっか、と智子は微笑んだ。
 穏やかな沈黙が訪れる。しばらく身を委ねていると、智子が「わかったよ」と口を開いた。
「荘太のiPod、誰が入っているのか、二つわかった」
 荘太は頷いた。なんだか面映い気分になる。「だけど」と智子は言葉を継いだ。
「わからないことが一つ増えた」
「なんですか?」
「どうして私の所に来たの?」
 荘太は迷わなかった。すっくと立ち上がり、「智子さん」と声を掛けた。
「戻りましょう」
作品名:ディレイ 作家名:宇城和孝