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天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【後編】 Ⅳ・完結

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 小さな公園には遊具らしいものは殆ど見当たらないが、片隅に鉄錆びた小さな滑り台だけがぽつねんと置き忘れられたように放置されていた。
 そういえば、この公園で遊ぶ子どの姿を見かけたことがない。今頃の子ども事情はよく知らないけれど、保険会社の同僚たちには小中学生を持つ人もたくさんいて、今の子どもはやれパソコンだゲームだと言って、外で遊ぼうとはしないという。
 ふと、有喜菜はこの滑り台で遊ぶ元気な子どもの姿を想像してみた。その手は知らぬ中に、膨らんだお腹を撫でていた。
 もし、この子が自分の血を分けた子どもであったら。自分は何としてでも直輝と子どもを紗英子から奪い取ろうとするだろう。
 だが、この子は私の子どもではない。やはり、紗英子にちゃんと返すべきなのだ。
 と、ジャンパースカートの上から、赤ん坊が動いているのがよく判った。近頃ではとみに胎動が烈しくなり、時には痛みを感じるほど腹壁を強く蹴ることもある。
 もしかしたら、胎児は男の子なのかもしれない。
「男かな、女かな」
 ふと傍らを歩く直輝が呟き、紗英子の膨らんだ腹に手を当ててきた。妊娠九ヶ月めに入ったときから、しばらく二人はホテルに行くのを止めようと話し合っていた。出産が終わるまでは、こうして時折逢っても、食事したりショッピングしたりと、ごく普通のデートを愉しもうということになっている。
「性別は訊かないことにしているのよ」
 有喜菜が微笑むのに、直輝は頷いた。
「その方が良いね。生まれるまでの愉しみがあって良い」
「生まれてくる赤ちゃんの名前は何てつけるの?」
 別に深い意図があって問うたわけではなかった。が、直輝はどこか遠い瞳で呟くように言った。
「名前は紗英子に任せるよ。あんなにも欲しがり待ち望んだ子どもだ。彼女が付けるのがいちばん良いだろう」
「そう。そう、よね」
 肩すかしを食らわされたような気分で、有喜菜は足許の小さな石ころを蹴った。心を晩秋の寒い風が吹き抜けてゆくような気がした。
「愉しみよね。来年の今頃は、もしかしたら、生まれた赤ちゃんがこの公園で遊んでいて、それを微笑んで眺めているのは、あなたと紗英かもしれない。ううん、きっとそうよね」
 それが良いのだ。やはり、血の通い合った親子、夫婦が一緒に過ごすのが最も理想的なのだ。
 と、直輝が小首を傾げた。
「それは、どうかな」
 ふいに彼は表情を引き締めた。
「有喜菜に話しておかなければいけないことがある」
「なあに?」
 有喜菜は別に意図したつもりはないが、その表情がどうも直輝には子どもっぽく見えたようである。
 時々、直輝に指摘されるのだが、有喜菜自身には判らない。
―有喜菜って、本当、よく判らないよな。何かこう、ぞくってくるほど色っぽいと思いきや、俺たちが知り合った中学生の頃と変わらないみたいに無邪気な表情するんだもんな。
 そんな時、直輝は決まって、まるで眩しいものでも見るような視線をくれる。
―俺は昔も今でも、そんなお前が眩しくて、見てられないよ。
 と、他人が聞けば一笑に付すだろう科白を大真面目に言っている。
「お前が無事に身二つになったら、俺は紗英子と別れるよ」
「―!」
 有喜菜は息を呑んだ。
「でも、直輝。それは」
 言いかけた有喜菜を、直輝の鋭い声が遮る。
「黙って聞いてくれ。これはもう何度も考えて出した結論なんだ。有喜菜の出産が終わったら、俺は紗英子と離婚する」
「私の―せいなの?」
 声が戦慄いた。家庭を壊すつもりはなかったと今更口にしたところで、それが何の理由になるだろう。結果として、有喜菜のささやかな復讐は一つの家庭を丸ごと壊してしまったのか。
 直輝は、口にしている非情な内容とは裏腹に、穏やかな表情で首を振った。
「もちろん、全くないと言えば、嘘になる。だけど、基本的には有喜菜のせいじゃない。今度のことで、俺は紗英子に対して、もう一緒にやっていく気持ちが持てなくなった。子どものこと、他の諸々のこと。何に対しても、俺とあいつは考え方、受け止め方が違いすぎる」
 直輝の顔が歪んだ。
「俺がもっと早くに気づいていれば、あいつを不幸にすることもなかったし、お前にも辛い想いをさせることもなかった」
「―直輝」
 有喜菜はかける言葉もなく、ただ黙り込んで直輝を見つめた。
「俺はつくづく馬鹿な男だよ。二十四年前に、その事実に気づいていれば、ここまで糸がもつれることはなかったのに。考えてみれば、紗英子も含めて俺たちは出発点を間違えてしまったんだろうな」
「間違った道を歩いて、今、やっとその誤りに気づいたっていうこと?」
「だろうな。随分と長い時間がかかったけど、今からでも、俺たち三人はやり直さなきゃならない。このままの状態を続けても、きっと俺たちだけじゃなく、紗英子ももっと不幸になる」
 有喜菜はハッとした。直輝の口にした〝俺たち〟という言葉の中にはもう、紗英子は含まれていない。今の彼にとって〝俺たち〟というのは、他でもない有喜菜と直輝なのだった。
 ついに直輝を紗英子から奪い返したのだ。そう思っても、有喜菜の心は少しも弾まなかった。
 自分にはこの男しかいない。復讐のために近づき、気づいた真実。その真実はあまりに重すぎて、有喜菜自身ですら、押し潰されそうだ。
「一つだけ訊いても良いかしら」
 控えめに言うのに、直輝は頷いた。
「何でも訊ねてくれ」
「赤ちゃんはどうするの?」
 既に有喜菜には、彼がどう応えるか、あらかた予測はついていた。
 それでも、彼が返答するまでには少しの刻を要した。直輝は唇をかすかに震わせ、それから眼を伏せた。
「もちろん、紗英子に育てさせるつもりだ」
「あなたはそれで良いの?」
「良いも悪いもない。子どもに対して情はあるし、叶うことなら、いつも側にいて成長を見守ってやりたい。でも、有喜菜。俺と別れたら、あいつにはもう何も残らない。生命を賭けても惜しくはないと思うほどに望んだ子どもまでを紗英子から奪い取ることはできないよ」
 そして、結局、紗英子のその狂おしいほどの願いは天に通じ、その代償のように、紗英子は直輝を喪った。紗英子が子どもをあくまでも望み続け代理出産に踏み切ったことが、直輝と紗英子の間に決定的な亀裂をもたらしたのだ。 
 しかし、誰が紗英子を責められるだろう。
 人間として、我が子を持ちたい、母になりたいと願うその心を否定できるなど、実は天の神ですら、許されはしないのだ。
「もし、神さまの思し召しがあるなら、俺たちにもいずれまた自然な形で子どもが授かるだろうから」
 最後に、直輝はポツリと言った。
その時、一陣の秋の風が二人の側を吹き抜けた。ザアーッと音を立てて、頭上の樹々が葉を撒き散らす。風に乗って、赤や黄色の眼にも鮮やかな葉が舞い上がった。
 葉が降る、降る。
 雪のように、すべてのものの上に。
 有喜菜と直輝は一切の言葉を発することもなく、降り続ける色鮮やかな葉を浴びながら立っていた。
 静かな秋の公園を、ゆっくりと季節がうつろってゆく。

 その日の夕刻、一人、マンションに戻った有喜菜宛てに速達が届いていた。