天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【後編】Ⅲ
「おい、見間違えたよ。一体、どこの良い女なんだって、マスターに訊ねちゃったよ」
これは全くの本音であったが、有喜菜は笑って、いなした。
「流石に、長いこと営業マンをやってたら、直輝もお世辞を言うことを憶えたのねぇ」
「君は相変わらずだな。言いたいことをずばすば言うところは少しも変わってない」
「―でしょ」
どうやら有喜菜の変わったのは外見だけで、中身は全く中学時代と同じらしい。
有喜菜の隣に座り、直輝は改めてしみじみと彼女を見つめた。
「綺麗になったね」
感に堪えたように言うと、有喜菜が昔のようにアーモンド型の瞳をくるっと動かして言う。
「また、お世辞?」
「まさか、俺が有喜菜にお世辞なんか言うわけないだろうが」
「それもそうね」
有喜菜と直輝は顔を見合わせて笑った。
こうして顔を突き合わせて話をしていると、時が戻ってあの時代に戻ったかのようだ。
「本当に懐かしいな」
有喜菜と過ごす時間は、直輝をあらゆるものから解き放ってくれる。それはあの頃と少しも変わらない。有喜菜はいつも余計なことは喋らず、ただ直輝の想いを、存在をゆったりと受け止めてくれた。
もしかしたら、自分が心から求めていたのは、有喜菜のような存在、自分のすべてを認め受け容れてくれる女だったのかもしれない。この時、直輝は生涯で初めて、紗英子との結婚に懐疑的な想いを抱いた。
話は弾み、あらゆる方面に及んだ。互いの近況から、かつて机を並べていた中学時代の話までと尽きなかった。ただ結婚していた頃の話になると、有喜菜は美しい顔を翳らせ、口をつぐむ。
あの太陽のように明るかった有喜菜をここまで哀しませたのは、どんな男だったのか。紗英子から有喜菜の悲惨な結婚生活はあらかた聞かされていたものの、今、彼女のしおれた花のような様を見ていると、逢わなかったこの二十年余りの間、有喜菜が過ごしてきた日々の大変さが改めて感じられた。
「子どもは? 確か、大分前に紗英子から君が妊娠したことを聞いたような気もするけど」
水を向けてみると、有喜菜は曖昧な笑みを浮かべた。
「いないわ。三回妊娠したけど、どの子も育たなかったの。一度目は八週で流産、二人目は六ヶ月まで育ったのに死産になってね。三度目は四ヶ月でまた駄目になっちゃった」
語尾がかすかに震え、直輝はハッとした。
有喜菜の翳を落とす長い睫がかすかに震え、露の滴が宿っていた。
「ごめん、心ないことを訊ねてしまった」
直輝は狼狽え、マスターに作って貰った水割りをひと息に煽った。有喜菜のドレスに包まれた肢体はほっそりとしていながら、肉感的だ。つんと上を向いた乳房は形も良いし、ウエストは細く、女性的なふくらみを保ちつつ、余計な肉は一切ついていない。
三十六歳でしかも三度も妊娠していながら、この体型を維持できているのは奇蹟だとしか言いようがない。―と、即座に見ないふりをして有喜菜の身体を見てしまうのは、やはり助平なエロ親父と呼ばれる年代になってしまったからだろうか。
どうも意識すればするほど、豊かな胸のふくらみや、スカートのスリットから覗く魅惑的な長い足に意識が向いてしまうようだ、その注意を逸らそうと酒を飲んでみるが、むしいろ逆効果で、飲めば飲むほど、視線は有喜菜の乳房にいってしまう。
一方の有喜菜はアルコール類ではなく、ウーロン茶だけを飲み続けている。
「私、あなたのことが好きだったのよ。でも、あなたは紗英子のことしか見ていなくて、私なんか眼中になかった」
だから、突然、有喜菜が発した言葉は最初、直輝には全く意味をなさずに飛び込んできた。
「え?」
自分でもみっともないと思うほど素っ頓狂な声が上がった。
しかし、物問いたげな直輝を無視して、有喜菜はつと立ち上がった。
片隅のグランドピアノまで行くと、マスタ―に了解を得てから、ピアノの前に座る。ほどなく、〝Candle Light〟の旋律が緩やかに流れてきた。
誰の曲か忘れたが、有名な作曲家が作ったインストゥメンタルの曲である。ライトが照らす蒼白いカクテルバーで向かい合う男女二人、その二人の顔を照らすテーブルのキャンドル・ライト。ごく自然にそんな情景が浮かび上がってくるようなムードのある、それでいて、どこか哀切な響きの籠もった曲調だ。
それにしても、今夜は愕きの連続だ。有喜菜は中学時代、テニス部に所属しており、エースとしてならしていた。県大会で準優勝の実績もあり、スポーツ万能というイメージが大きかったのだけれど、まさかピアノもプロ顔負けの演奏をするとは知らなかった。
考えてみれば、自分は有喜菜について果たして、どれだけのことを知っていたのだろう。
すぐ近くにいながら、紗英子と付き合いだしてからは有喜菜は遠い存在になった。お互いに何でも知り合っていると思い込んでいたけれど、その実、直輝は有喜菜について何も知らない。
ふいに曲が途切れた。そこで彼は初めて、演奏が終わったのだと知った。水を打った静寂の中、マスターの拍手が直輝の半ば麻痺したような意識を破った。
直輝は唇を噛みしめ、ピアノからまた自分の方へと近づいてくる有喜菜を凝視した。
自分は何かとんでもない愚かな間違いを犯してしまったのではないだろうか。それが何かとまでは、はきとは判らなくても、永遠に取り返しのつかない失敗をしたのではないかという焦りと後悔の入り乱れた気持ちが直輝を苛立たせた。
「今し方の話だけど」
直輝が切り込むのに、有喜菜は真顔で首を振った。
「あれはもう良いの。ごめんね。私も久しぶりに直輝に逢って、言わなくても良いことを口にしてしまったみたい」
有喜菜は改めてマスターにカンパリソーダを頼んでいる。
「演奏したから、汗もかいたし、喉も渇いちゃった」
舌をちろりと覗かせ、肩を竦めて見せる。
妖艶な外見には似合わないその邪気のない仕種は、まさに十三歳の有喜菜そのものであった。ぐっと烈しい感情が突き上げてきて、直輝は言った。
「有喜菜、俺はあの頃、君を」
「その話はもう止めて。今更、過ぎたことよ」
マスターが氷をグラスに入れる音だけが静けさの中に鋭く響き渡った。渡されたグラスごと、有喜菜は見事な飲みっぷりでカンパリソーダをひと息に煽った。
白い喉を仰け反らせるその姿に、直輝は身体の芯が熱くなる。有喜菜の豊満な肢体をベッドに組み敷けば、こんな風に白い喉をのけぞらせるのだろうか。その時、彼女はどんな声で啼くのだろうか。
直輝はハッと我に返った。
馬鹿な、有喜菜はガキの頃からの友達だぞ? その友達に対して、俺は何を考えてるんだ?
紗英子と結婚するまでは、他の女との拘わりが一切ないとは言えないが、結婚後は浮気は一度もしていない。ゆえに、直輝は自分がそれほど堪え性のない色情狂ではないと思っていたが、今夜、これほどまでに有喜菜に欲情してしまうのは、どうしたことなのだろう。
「おい、そんなに一気のみして大丈夫なのか?」
ふふっと、有喜菜はまた無邪気にも見える笑みを浮かべた。
「直輝、私、今、妊娠しているの。だから、あなたの言うとおり、こんなにお酒を飲んじゃ駄目なのよ」
刹那、直輝は息が止まるかと思った。
「妊娠? 君、再婚―」
これは全くの本音であったが、有喜菜は笑って、いなした。
「流石に、長いこと営業マンをやってたら、直輝もお世辞を言うことを憶えたのねぇ」
「君は相変わらずだな。言いたいことをずばすば言うところは少しも変わってない」
「―でしょ」
どうやら有喜菜の変わったのは外見だけで、中身は全く中学時代と同じらしい。
有喜菜の隣に座り、直輝は改めてしみじみと彼女を見つめた。
「綺麗になったね」
感に堪えたように言うと、有喜菜が昔のようにアーモンド型の瞳をくるっと動かして言う。
「また、お世辞?」
「まさか、俺が有喜菜にお世辞なんか言うわけないだろうが」
「それもそうね」
有喜菜と直輝は顔を見合わせて笑った。
こうして顔を突き合わせて話をしていると、時が戻ってあの時代に戻ったかのようだ。
「本当に懐かしいな」
有喜菜と過ごす時間は、直輝をあらゆるものから解き放ってくれる。それはあの頃と少しも変わらない。有喜菜はいつも余計なことは喋らず、ただ直輝の想いを、存在をゆったりと受け止めてくれた。
もしかしたら、自分が心から求めていたのは、有喜菜のような存在、自分のすべてを認め受け容れてくれる女だったのかもしれない。この時、直輝は生涯で初めて、紗英子との結婚に懐疑的な想いを抱いた。
話は弾み、あらゆる方面に及んだ。互いの近況から、かつて机を並べていた中学時代の話までと尽きなかった。ただ結婚していた頃の話になると、有喜菜は美しい顔を翳らせ、口をつぐむ。
あの太陽のように明るかった有喜菜をここまで哀しませたのは、どんな男だったのか。紗英子から有喜菜の悲惨な結婚生活はあらかた聞かされていたものの、今、彼女のしおれた花のような様を見ていると、逢わなかったこの二十年余りの間、有喜菜が過ごしてきた日々の大変さが改めて感じられた。
「子どもは? 確か、大分前に紗英子から君が妊娠したことを聞いたような気もするけど」
水を向けてみると、有喜菜は曖昧な笑みを浮かべた。
「いないわ。三回妊娠したけど、どの子も育たなかったの。一度目は八週で流産、二人目は六ヶ月まで育ったのに死産になってね。三度目は四ヶ月でまた駄目になっちゃった」
語尾がかすかに震え、直輝はハッとした。
有喜菜の翳を落とす長い睫がかすかに震え、露の滴が宿っていた。
「ごめん、心ないことを訊ねてしまった」
直輝は狼狽え、マスターに作って貰った水割りをひと息に煽った。有喜菜のドレスに包まれた肢体はほっそりとしていながら、肉感的だ。つんと上を向いた乳房は形も良いし、ウエストは細く、女性的なふくらみを保ちつつ、余計な肉は一切ついていない。
三十六歳でしかも三度も妊娠していながら、この体型を維持できているのは奇蹟だとしか言いようがない。―と、即座に見ないふりをして有喜菜の身体を見てしまうのは、やはり助平なエロ親父と呼ばれる年代になってしまったからだろうか。
どうも意識すればするほど、豊かな胸のふくらみや、スカートのスリットから覗く魅惑的な長い足に意識が向いてしまうようだ、その注意を逸らそうと酒を飲んでみるが、むしいろ逆効果で、飲めば飲むほど、視線は有喜菜の乳房にいってしまう。
一方の有喜菜はアルコール類ではなく、ウーロン茶だけを飲み続けている。
「私、あなたのことが好きだったのよ。でも、あなたは紗英子のことしか見ていなくて、私なんか眼中になかった」
だから、突然、有喜菜が発した言葉は最初、直輝には全く意味をなさずに飛び込んできた。
「え?」
自分でもみっともないと思うほど素っ頓狂な声が上がった。
しかし、物問いたげな直輝を無視して、有喜菜はつと立ち上がった。
片隅のグランドピアノまで行くと、マスタ―に了解を得てから、ピアノの前に座る。ほどなく、〝Candle Light〟の旋律が緩やかに流れてきた。
誰の曲か忘れたが、有名な作曲家が作ったインストゥメンタルの曲である。ライトが照らす蒼白いカクテルバーで向かい合う男女二人、その二人の顔を照らすテーブルのキャンドル・ライト。ごく自然にそんな情景が浮かび上がってくるようなムードのある、それでいて、どこか哀切な響きの籠もった曲調だ。
それにしても、今夜は愕きの連続だ。有喜菜は中学時代、テニス部に所属しており、エースとしてならしていた。県大会で準優勝の実績もあり、スポーツ万能というイメージが大きかったのだけれど、まさかピアノもプロ顔負けの演奏をするとは知らなかった。
考えてみれば、自分は有喜菜について果たして、どれだけのことを知っていたのだろう。
すぐ近くにいながら、紗英子と付き合いだしてからは有喜菜は遠い存在になった。お互いに何でも知り合っていると思い込んでいたけれど、その実、直輝は有喜菜について何も知らない。
ふいに曲が途切れた。そこで彼は初めて、演奏が終わったのだと知った。水を打った静寂の中、マスターの拍手が直輝の半ば麻痺したような意識を破った。
直輝は唇を噛みしめ、ピアノからまた自分の方へと近づいてくる有喜菜を凝視した。
自分は何かとんでもない愚かな間違いを犯してしまったのではないだろうか。それが何かとまでは、はきとは判らなくても、永遠に取り返しのつかない失敗をしたのではないかという焦りと後悔の入り乱れた気持ちが直輝を苛立たせた。
「今し方の話だけど」
直輝が切り込むのに、有喜菜は真顔で首を振った。
「あれはもう良いの。ごめんね。私も久しぶりに直輝に逢って、言わなくても良いことを口にしてしまったみたい」
有喜菜は改めてマスターにカンパリソーダを頼んでいる。
「演奏したから、汗もかいたし、喉も渇いちゃった」
舌をちろりと覗かせ、肩を竦めて見せる。
妖艶な外見には似合わないその邪気のない仕種は、まさに十三歳の有喜菜そのものであった。ぐっと烈しい感情が突き上げてきて、直輝は言った。
「有喜菜、俺はあの頃、君を」
「その話はもう止めて。今更、過ぎたことよ」
マスターが氷をグラスに入れる音だけが静けさの中に鋭く響き渡った。渡されたグラスごと、有喜菜は見事な飲みっぷりでカンパリソーダをひと息に煽った。
白い喉を仰け反らせるその姿に、直輝は身体の芯が熱くなる。有喜菜の豊満な肢体をベッドに組み敷けば、こんな風に白い喉をのけぞらせるのだろうか。その時、彼女はどんな声で啼くのだろうか。
直輝はハッと我に返った。
馬鹿な、有喜菜はガキの頃からの友達だぞ? その友達に対して、俺は何を考えてるんだ?
紗英子と結婚するまでは、他の女との拘わりが一切ないとは言えないが、結婚後は浮気は一度もしていない。ゆえに、直輝は自分がそれほど堪え性のない色情狂ではないと思っていたが、今夜、これほどまでに有喜菜に欲情してしまうのは、どうしたことなのだろう。
「おい、そんなに一気のみして大丈夫なのか?」
ふふっと、有喜菜はまた無邪気にも見える笑みを浮かべた。
「直輝、私、今、妊娠しているの。だから、あなたの言うとおり、こんなにお酒を飲んじゃ駄目なのよ」
刹那、直輝は息が止まるかと思った。
「妊娠? 君、再婚―」
作品名:天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【後編】Ⅲ 作家名:東 めぐみ