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天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【後編】Ⅰ

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♦RoundⅤ(覚醒)♦

 それは突然の目覚めにも似ていた。いや、目覚めるというよりは、長い長い旅から漸く帰還したと表現した方が正しいかもしれない。意識を手放していた間はものの数時間にすぎないのに、随分と長い眠りについていたような心地で、まだ意識の芯はぼんやりと半ば眠ったままのような頼りない状態であった。
「有喜菜?」
 聞き慣れた―けれども、今は何か無性に耳にしたくない女の声がまだぼんやりとした意識に引っかかる。
 有喜菜は半ば開いた眼をわずかにまたたかせた。
「良かった、気がついたのね」
 何なの、この癇に障る女の声は。
 有喜菜はのろのろと視線を動かし、定まらない焦点を声の主に合わせる。と、瞳を潤ませた中年の女が気遣わしげにこちらを見ているのが映じた。
「気がついて良かったわ。本当に良かった」
 長年の親友紗英子がハンカチを眼に押し当て、しきりに〝良かった〟と繰り返している。一体、何がそんなに良かったというのだろう。
「幾ら何でも、もうそろそろ麻酔から覚醒しても良い頃だとお医者さまから言われて、もう二時間が過ぎてるの。ずっと眠り続けるあなたを見ていると、このまま永遠に目覚めることないんじゃないかと心配になって」
 また声を詰まらせる女を、有喜菜は冷めた眼で見つめる。
 たかだか体外受精の処置を受けた程度のことで、死ぬなんてあるはずがない。ましてや、それで使用する麻酔で永遠に意識が戻らないだなんて。なのに、眼前のこの女はあたかも有喜菜が死地から生還したかのように驚喜している。そのことが随分と愚かで滑稽に思えてならなかった。
 有喜菜がうっすらと微笑んだのを、紗英子は良いように誤解してくれたようである。まだハンカチで目尻を押さえながら、幾度も頷いた。
「その様子では、気分は悪くないようね」
「お陰さまで」
 お陰さまでというのも何やら妙な応えだとは思ったけれど、それしか思い浮かばなかった。
「私、どれくらい意識を失っていたのかしら」
 処置を受ける前は一時間程度と聞かされていたはずだが、紗英子の狼狽え様ではかなり長く眠っていたらしい。
 紗英子は吐息を洩らした。
「そうね。かれこれ三時間くらい眠っていたことになるかしら」
「三時間も意識を失っていたの」
 別にどんな表現でも構わないようなものだが、何だかこのときの有喜菜には紗英子の〝眠っている〟という言い方が気に入らなかった。やはり、常になく神経が高ぶっているのも麻酔の影響がまだ完全に消えてはいないのだろう。
 この日、正確に言うと二〇一三年三月一日、有喜菜はS市のエンジェル・クリニックで第一回目の体外受精の処置を受けた。親友の紗英子から〝私と直輝の子どもを生んで欲しい〟と依頼されたのは去年の十二月下旬、世間はクリスマス当日のまだ華やかなムードが消えやらぬ頃であった。
 その翌週、紗英子に伴われ、有喜菜は初めてS市のクリニックを訪ねた。湖畔にひっそりと建つクリニックは病院というよりは、どこかのペンションかコテージのように瀟洒な外観だった。日本で唯一、現行では違法とされる代理母出産を取り扱うということで、どんな大病院かと想像していたのに、現実には小さな普通のどこにでもあるようなクリニックにすぎない。
 院長の深沢という銀髪の医師は六十前だという。代理母出産を扱ったことで既に警察から任意同行までされたことがあるというのに、それでも不妊に苦しむ夫婦を救いたいと懲りずに代理母出産を手がけている。確かに深沢院長のその物腰は恬淡としており、到底、話題性や金儲けのためだけにこの日本でも稀な体外受精を手がけているようには見えない。
 とりあえず初回は紗英子と有喜菜それぞれがひととおりの検査を受けることになった。紗英子は卵巣と卵子の状態、有喜菜は全体的な健康診査と、更に卵巣・子宮から卵管など、妊娠に適した状態かを綿密に調べるかなり大がかりなものとなった。
 有喜菜の検査は丸二日に渡って行われるので、入院ということになる。その間、紗英子は近くのホテルに泊まり込み、ずっと有喜菜に付き添った。ひととおりの検査が終わった二日めの夕方、院長室に呼ばれ、院長立ち会いの下、担当となる若い医師から説明を受けた。
 結果として、有喜菜は子宮、卵巣ともに至って正常であり、三十六歳の女性としてはごく平均的な健康状態であるとの診断が下った。紗英子の卵子の方も状態はすごぶる良いとはいえないけれども、十分、体外受精に使えるとのことで、後は紗英子の夫である直輝の承諾がありさえすれば、体外受精は行えるという事実が淡々と担当医から告げられた。
 紗英子が気になるのは、やはり有喜菜が流産を繰り返していることであった。
 だが、これには院長自らが語った。
―宮澤さんの場合、二度の流産とはいえ、二度目は不幸な事故によるものだとしか考えられません。また死産は、お腹の赤ちゃんに先天的な心臓疾患があったためと考えられます。
 つまり、本当の意味での流産は一度だけなので、習慣性流産だと決めつけることはできないというものだった。ちなみに、三度以上続けて流産を繰り返す場合、習慣性流産と呼ばれる。
 要するに、たくさんの体外受精を初め、ごく普通の妊娠・出産を手がけてきた大ベテラン医師に言わせれば、有喜菜が次は元気な赤児を生む可能性は十二分にある―という判断であった。
 
 その話を紗英子は当の有喜菜と共に聞いた。隣に座る有喜菜の表情はどこまでも静謐そのもので、格別に安堵しているようにも歓んでいるようにも見えなかった、まるで感情というものを意識的に奥底に封印しているかのようにも見えた。
 かえって当事者ではない紗英子の方が涙ぐまんばかりに胸をなで下ろしていた。いや、この場合、やはり有喜菜に当事者という言葉はふさわしくないかもしれない。やはり、紗英子の方が当事者と呼ばれる立場にあるだろう。
 初回の診断では概ね、そのようなことが行われた。既に年の瀬に入り、病院そのものも年末年始の休みに入ることもあり、次回の受診は年明けに決まった。
 その年の正月は、紗英子にとって特別な想いで迎えるものとなった。泊まりがけでS市に赴くのだから、当然、夫の直輝にもクリニックに行くことは話している。しかし、当初から代理母出産に反対している夫は、紗英子の話にも気乗りしない様子で〝そうか〟と頷くだけであった。
 というよりも、代理母を使って子どもを得ようとする話をして以来、直輝はまるで紗英子を見知らぬ他人を見るような眼で見るようになった。これが、あの子宮全摘した直後、紗英子を不安げに見守り、心から労ってくれた夫と同じ男か―、そう疑わずにはおられないほど醒めたまなざしに、紗英子ですらたじろぐことがあった。
 そんな時、紗英子の中をちらりと後悔に似たものがよぎるのだった。
 私は何かとんでもない間違いを犯してしまったのではないだろうか。
 直輝とのささやかで平穏な幸せを棄ててまで、突き進むだけの価値があるものだったのか。思わず代理母出産なんてもう止めてしまおうかと弱い心に挫けそうになってしまう。