吉良吉田殺人事件
温泉屋の事件簿:
吉良吉田殺人事件
午後13時03分丁度に、特急ひだ12号は名古屋駅を出発した。右手にスーパーホテルの看板や河合塾のサインを見ながら、島田を乗せた列車は次第に速度を増した。島田幸助、31歳は、たった今、自分が終えた仕事を振り返った。サングラスを外して、ふー、と一息吐いた。それからきっかり5分後に、名古屋駅の構内で買った弁当を食らいついた。その時列車は、名古屋と岐阜とを結ぶ庄内川の鉄橋を渡り切った。
島田は。潔癖癖のある確認症である。自分の行為を常に分刻み、時には秒刻みではからないと気が済まない。いつからこうなったのか、自分でも覚えていない。大学を卒業してから、転々と職を変え、いつの間にか宅配便の配達人をするようになり、お客様の家に正確な時間で荷物を届けようとしているうちに、こんな癖が付いた。島田自身、我ながら情けないと思うことがある。しかし、今やこれは彼の体の一部になっていて自分ではどうすることもできなかった。彼女も何度か出来た。見た目には二枚目で、背も高くインテリである島田は女性と知り合うのに不自由はしなかった。しかし、暫くすると、彼女たちの誰もが島田の潔癖症に我慢が出来なくなり、次第に去って行った。待ち合わせの時間ならまだしも、セックスの時まで、前儀に5分、後10分後に行くから、などと言われれば、誰でも興覚めしてしまう。彼女たちは島田の優しさを十分に知りながらも、後ろ髪を引かれるように、悲しい微笑みを残して去って行った。
長良川の穏やかな流れを下に見ながら、列車は岐阜市内に着いた。岐阜の古い街並みが、点々と広がる家々の屋根と白いビルとのコントラストで、眼前に広がった。
列車は岐阜駅で進行方向を変え。一路下呂、高山方面に向かっていた。空はやや曇りがちだったが、収穫を控えた田畑や、山々の緑が少し荒れた島田の心を幾らか柔らかくさせた。
列車が美濃太田駅を過ぎた。
「岐阜駅を1時21分に過ぎたから、後一時間ほどで下呂か...」
島田はおもむろに呟いた。眼下を緑色に染まった谷川が横切った。
「俺のせいじゃない。俺がわるいのじゃないのだ。」
島田は自分のそう言い聞かせた。
「ああするしかなかったのだ...」
島田は昨晩の出来事を振り返っていた。
時を同じくして、島田と同じ列車に一人の男がいた。正確にはその妻と一緒の二人である。
彼も昨日の出来事を振り返っていた。
「奥三河君、ちょっと。」
部長の門田が彼を、オフィス奥の応接室に呼んだ。
「実は、昨日の役員会でも話合ったのだが...」
門田がいかにも申し訳なさそうに、渋い表情で続けた。
「それで、社長命令で、どうしても現在の課長職を一人減らさなければならない。君も知っているように、うちの会社は同族会社で主なポストは、役員やその息子達が占めている。それでどうしてもこの連中を外す訳にはいかないのだ。私の立場を分かって欲しいとは言わないが、君にお願いするしかない...」
如何にも辛い、という顔つきで、門田は、自分の部下である奥三河の顔を見上げた。
「苦しい立場って、ではこの私はどうなるのですか?女房もいるし、それに家のローンだってまだ残っています。何より、私のこれまでの貢献も、評価して頂いているのではないでしょうか。」
奥三河は立ったまま、黒いソファーに腰を掛けた門田に向かって、答えた。
「君のアメリカ支社設立や、香港や韓国、ベトナムなどアジア市場への貢献は誰もが評価している。だから、その君には語学力があるじゃないか。それを生かして、何とかならんか。今なら退職金もそれなりの金額が出せる。チャンスだと思うよ。」
「チャンスだっておっしゃても、この不況で何が出来ると言うのですか?誰もが買い控えて、じっとしていると言うのに...]
「だから君。その、君はダンスも出来るし、歌も歌える。何とかやっていけると思うよ。役員会でも言っていた。奥三河なら大丈夫だ。ほかの連中は追い出されたら野垂れ死にだって。」
「そんな。むちゃくちゃですよ、部長。」
終いには、部長はじっと口を閉ざしたままだった。奥三河は、もうらちが開かないと、一端諦めて、自分のデスクに帰った。隣の席の明美がそっと、彼に囁いた。
「課長、何のお話ですか。例の、まさか会社をおやめになるなんて...」
奥三河はじっと、口をつぐんで悔しさをこらえていた。
奥三河京太郎。とある中堅電機メーカーの課長である。年齢は45歳。年のわりには若く見える。真面目で仕事好き。一方趣味も多彩で、音楽からテニスなどのスポーツまで、幅広くこなす。そのため、女子社員達からの人望も厚かった。仕事には厳しく、与えられた業務は自ら開拓して達成できるという、社内でも評価の高い人材だった。ただ、縁故や地縁などに頼らない性格が、彼を会社ではやや、異質な存在に置いていた。しかし、クールで出来る男としての信頼は厚く、隣のデスクの明美も、彼の絶大なファンの一人だった。
「そんな...勝手なことを会社にさせていいのですか。奥三河さん、今まであんなに会社のために頑張って来たのに...女子社員も見な言っています。この小さな会社がここまで成長したのは奥三河さんのお蔭だって。私もそんな課長の姿を見て頑張って来たのに...」
明美は終いには、涙声になっていた。
「...ありがとう、明美ちゃん。君だけでもそう言ってくれて、うれしい...」
京太郎は漸くのことでそれだけ言うと、再び自分のデスクを見つめた。そこには家族の写真はもちろんのこと、海外の子会社で、自分が育て、ともに働いた現地職員たちの明るい笑顔が、こちらを見て、微笑んでいた。
「俺は、縁故も地縁も無い。それだけに自分の力だけでここまでやってきた。会社の同族連中などには何の未練もない。しかし、この海外の若い社員たちの姿は思い出しても、忍びない気がする...」
悔しさが、半ばやけくその思いに変わり始めた。
「こんな不況のさ中、一体どうすればいい。家族になんて説明すればいいのだ。俺はもう45歳だ。今から再出発など、考えられるだろうか....」
そう思った時、オフィスの窓の向こうで、どこからか物売りの声がした。
「...竿竹ー、いらんかねー 要らなければ行っちゃうよー 竿竹ー、いらんかねー」
その、遠い声に乗って、午後の日差しが京太郎の顔を照らし始めた。そして、急に心と体が軽くなった気がした。何とかなる、心にそう決めた。。京太郎はその足で、デスクから再び応接室へと向かった。部屋の中では、門田が未だ、悶々と苦々しい顔で、テーブルの上に額を落としていた。
「この人も苦しんでいるのだ...」
京太郎の胸にこみ上げるものがあった。
「部長...分かりました...」
門田は、へっという顔で、京太郎を見上げた。
「い、今なんて言った...奥三河君..?」
「わかりました、と言ったのです。部長、顔を上げて下さい。」
「奥三河君...」
門田の目は苦しさと、涙とでくしゃくしゃになっていた。
「奥三河君...申し訳ない...」
門田は、奥三河の手を取って、深々と頭を下げた。
隣の席で、妻の信子が不機嫌そうな顔をしたまま、それでも車窓から見える景色には満足げに、ぼんやりと外を眺めていた。
吉良吉田殺人事件
午後13時03分丁度に、特急ひだ12号は名古屋駅を出発した。右手にスーパーホテルの看板や河合塾のサインを見ながら、島田を乗せた列車は次第に速度を増した。島田幸助、31歳は、たった今、自分が終えた仕事を振り返った。サングラスを外して、ふー、と一息吐いた。それからきっかり5分後に、名古屋駅の構内で買った弁当を食らいついた。その時列車は、名古屋と岐阜とを結ぶ庄内川の鉄橋を渡り切った。
島田は。潔癖癖のある確認症である。自分の行為を常に分刻み、時には秒刻みではからないと気が済まない。いつからこうなったのか、自分でも覚えていない。大学を卒業してから、転々と職を変え、いつの間にか宅配便の配達人をするようになり、お客様の家に正確な時間で荷物を届けようとしているうちに、こんな癖が付いた。島田自身、我ながら情けないと思うことがある。しかし、今やこれは彼の体の一部になっていて自分ではどうすることもできなかった。彼女も何度か出来た。見た目には二枚目で、背も高くインテリである島田は女性と知り合うのに不自由はしなかった。しかし、暫くすると、彼女たちの誰もが島田の潔癖症に我慢が出来なくなり、次第に去って行った。待ち合わせの時間ならまだしも、セックスの時まで、前儀に5分、後10分後に行くから、などと言われれば、誰でも興覚めしてしまう。彼女たちは島田の優しさを十分に知りながらも、後ろ髪を引かれるように、悲しい微笑みを残して去って行った。
長良川の穏やかな流れを下に見ながら、列車は岐阜市内に着いた。岐阜の古い街並みが、点々と広がる家々の屋根と白いビルとのコントラストで、眼前に広がった。
列車は岐阜駅で進行方向を変え。一路下呂、高山方面に向かっていた。空はやや曇りがちだったが、収穫を控えた田畑や、山々の緑が少し荒れた島田の心を幾らか柔らかくさせた。
列車が美濃太田駅を過ぎた。
「岐阜駅を1時21分に過ぎたから、後一時間ほどで下呂か...」
島田はおもむろに呟いた。眼下を緑色に染まった谷川が横切った。
「俺のせいじゃない。俺がわるいのじゃないのだ。」
島田は自分のそう言い聞かせた。
「ああするしかなかったのだ...」
島田は昨晩の出来事を振り返っていた。
時を同じくして、島田と同じ列車に一人の男がいた。正確にはその妻と一緒の二人である。
彼も昨日の出来事を振り返っていた。
「奥三河君、ちょっと。」
部長の門田が彼を、オフィス奥の応接室に呼んだ。
「実は、昨日の役員会でも話合ったのだが...」
門田がいかにも申し訳なさそうに、渋い表情で続けた。
「それで、社長命令で、どうしても現在の課長職を一人減らさなければならない。君も知っているように、うちの会社は同族会社で主なポストは、役員やその息子達が占めている。それでどうしてもこの連中を外す訳にはいかないのだ。私の立場を分かって欲しいとは言わないが、君にお願いするしかない...」
如何にも辛い、という顔つきで、門田は、自分の部下である奥三河の顔を見上げた。
「苦しい立場って、ではこの私はどうなるのですか?女房もいるし、それに家のローンだってまだ残っています。何より、私のこれまでの貢献も、評価して頂いているのではないでしょうか。」
奥三河は立ったまま、黒いソファーに腰を掛けた門田に向かって、答えた。
「君のアメリカ支社設立や、香港や韓国、ベトナムなどアジア市場への貢献は誰もが評価している。だから、その君には語学力があるじゃないか。それを生かして、何とかならんか。今なら退職金もそれなりの金額が出せる。チャンスだと思うよ。」
「チャンスだっておっしゃても、この不況で何が出来ると言うのですか?誰もが買い控えて、じっとしていると言うのに...]
「だから君。その、君はダンスも出来るし、歌も歌える。何とかやっていけると思うよ。役員会でも言っていた。奥三河なら大丈夫だ。ほかの連中は追い出されたら野垂れ死にだって。」
「そんな。むちゃくちゃですよ、部長。」
終いには、部長はじっと口を閉ざしたままだった。奥三河は、もうらちが開かないと、一端諦めて、自分のデスクに帰った。隣の席の明美がそっと、彼に囁いた。
「課長、何のお話ですか。例の、まさか会社をおやめになるなんて...」
奥三河はじっと、口をつぐんで悔しさをこらえていた。
奥三河京太郎。とある中堅電機メーカーの課長である。年齢は45歳。年のわりには若く見える。真面目で仕事好き。一方趣味も多彩で、音楽からテニスなどのスポーツまで、幅広くこなす。そのため、女子社員達からの人望も厚かった。仕事には厳しく、与えられた業務は自ら開拓して達成できるという、社内でも評価の高い人材だった。ただ、縁故や地縁などに頼らない性格が、彼を会社ではやや、異質な存在に置いていた。しかし、クールで出来る男としての信頼は厚く、隣のデスクの明美も、彼の絶大なファンの一人だった。
「そんな...勝手なことを会社にさせていいのですか。奥三河さん、今まであんなに会社のために頑張って来たのに...女子社員も見な言っています。この小さな会社がここまで成長したのは奥三河さんのお蔭だって。私もそんな課長の姿を見て頑張って来たのに...」
明美は終いには、涙声になっていた。
「...ありがとう、明美ちゃん。君だけでもそう言ってくれて、うれしい...」
京太郎は漸くのことでそれだけ言うと、再び自分のデスクを見つめた。そこには家族の写真はもちろんのこと、海外の子会社で、自分が育て、ともに働いた現地職員たちの明るい笑顔が、こちらを見て、微笑んでいた。
「俺は、縁故も地縁も無い。それだけに自分の力だけでここまでやってきた。会社の同族連中などには何の未練もない。しかし、この海外の若い社員たちの姿は思い出しても、忍びない気がする...」
悔しさが、半ばやけくその思いに変わり始めた。
「こんな不況のさ中、一体どうすればいい。家族になんて説明すればいいのだ。俺はもう45歳だ。今から再出発など、考えられるだろうか....」
そう思った時、オフィスの窓の向こうで、どこからか物売りの声がした。
「...竿竹ー、いらんかねー 要らなければ行っちゃうよー 竿竹ー、いらんかねー」
その、遠い声に乗って、午後の日差しが京太郎の顔を照らし始めた。そして、急に心と体が軽くなった気がした。何とかなる、心にそう決めた。。京太郎はその足で、デスクから再び応接室へと向かった。部屋の中では、門田が未だ、悶々と苦々しい顔で、テーブルの上に額を落としていた。
「この人も苦しんでいるのだ...」
京太郎の胸にこみ上げるものがあった。
「部長...分かりました...」
門田は、へっという顔で、京太郎を見上げた。
「い、今なんて言った...奥三河君..?」
「わかりました、と言ったのです。部長、顔を上げて下さい。」
「奥三河君...」
門田の目は苦しさと、涙とでくしゃくしゃになっていた。
「奥三河君...申し訳ない...」
門田は、奥三河の手を取って、深々と頭を下げた。
隣の席で、妻の信子が不機嫌そうな顔をしたまま、それでも車窓から見える景色には満足げに、ぼんやりと外を眺めていた。