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「漢(おとこ)」とは

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最近、『男』とは言うことを考えた。
別に、色っぽい話しではない。
女性からみて魅力的な男のことではない。
男である私からみての男。
男とは、どうあるべきなのか?
まあ、人間とは、どうあるべきなのかと同じようなものかなとも想ったが、どうやら、それとも似てはいるが、すこし違うようだ。
男からみて、恰好いい男、憧れる男。
そんなものかもしれない。

もちろん、私は、そんな立派な男ではない。だから憧れるのだが。(笑)
それどころか、それを自分の頭では、言葉にすることも難しい。
そこで、小説などの作品に登場する恰好いい男の姿を並べてみることにした。
これは、いい想い付きかもしれない。
いま生きている恰好いい男をあげればいいのかもしれないが、生憎、生来の傲岸不遜の性格なので、同じ空気を吸いながら、自分が憧れるほどの同性=男など見たことがないのだから。(まあ、認めたくないだけなのかもしれないが。(笑)
もっとも、女性には、いつだって憧れているのだが。(苦笑)

女性からみてではないと書いたが、最初の例は、すこし外れてしまう。
19歳のころだったと想う。
密かに想っていた女性がいた。
その彼女に、『風とともに去りぬ』のレッド・バトラーが恰好いいと言われたことがあった。
早速、読んだことなかった『風とともに去りぬ』を読んだ。
うーん、確かに恰好いい。
どこが、と言えば、南軍の敗色が濃くなり、首都であったアトランタも陥落する。その炎の中で彼はスカーレットを救う。ここは宝塚の舞台でも有名なシーン。恰好いいのは、その後なのだ。救ったスカーレットと別れて、彼は負けることが決まった南軍に、初めて参軍するのだ。なぜなら、負けが決まったから。
これは、唸った。そして、こんな男をカッコイイと言った、その彼女にも惚れ直したのだが。
但し、レッドの、どこを格好いいと思ったのかは、その彼女にも聞いていない。
だから、あくまで男との私から見ての恰好いいのだ。(笑)

いろいろ書いてみたいことも多いのだが、字数の制限もある。ほんとうはエッセイのほうにでも書いたほうがよかったのかも。だから、少々唐突になるが、話しを進めよう。
司馬遼太郎氏の作品が好きで、意識しているもの以外にも随分影響を受けていると想う。
司馬さんは、『男』について『漢』と言う字をよく使っているようだ。勿論、中国の古代の国名ではない。『好漢』、つまり、いい男のことだが、その『漢』である。私の想っている『男』のニュアンスに、かなり近いと感じている。
司馬さんの作品の中には、実に様々な『漢』達が登場し、それぞれに魅力的だ。
例えば「世に棲む日々」の中で、高杉晋作が、ついに奇兵隊を初めとする諸隊を率いて、藩内クデターに決起する。その折に、京から長州に逃亡してた七卿の居る山門の階段を騎馬で駆け上がり、七卿を前に
「今から、長州男児の肝っ玉をお見せ申す。」と言い放つシーンがある。(改めて確認してないので、多少の間違いは、ご容赦願いたい。この点は、以下でも同様である。)
これは、カッコイイ、たまらない。

もっと、カッコイイと想うのは『城塞』の中に描かれる真田幸村である。大阪城の落城の数日前に、四天王寺の野で、攻め寄せる圧倒的多勢の東軍を、散々に打ち破る。やがて夕刻をむかえ大阪城に引き上げる西軍の殿軍を努める。東軍各大名の微妙な関係もあってのことだが、その真田勢を追おうとする東軍は、ついに現れない。その雲霞如き東軍の大軍を、遥かに望みながら幸村は、
『東軍、百万を呼号すれども、ついに一個半個の男子もあらずや。』と言い放つ。
こんなのが、まさに男子の本懐である。
こんな一瞬のためになら、生涯を捧げても、なんの悔いもないだろう。
男とは、そんなものだ。稚気であり、幼さこそが『漢』の本質の一部ではあろう。

司馬さんの作品に登場する『漢』達の中でも、もっとも人気があるのは、やはり竜馬と信長ではないかと想う。もっとも、この二人は司馬作品の中だけでなく、日本の歴史上、もっとも人気が高いようにも想う。司馬さん自身も、この二人には、余程の思い入れ、愛情があったように感じる。その死をあくまでも惜しみ、讃えている。私も、まったく同感である。その想いだけでも、一文を書いてみたくなるほどにだ。ただ、余りに、この二人は偉すぎる。私などが、カッコイイとか言うには、おこがましいと言うものだ。
 歴史にifは禁物と言うが、本能寺で信長が死なずいたなら、日本史どころか、アジア史、ひいては世界史にさえ、どれほどの影響が在っただろうなどまで夢想してしまう。

そう言えば『竜馬がゆく』の終末近くに、それまでとは違ったタイプの人々が登場する。後の明治の社会を作っていくような人々だ。男性なのだが、あえて『男』とは書かない。それまでの登場してくる人物―『男』達は、武智半平太にしろ、岡田以蔵にしろ。個性的と言う以上に、クセがありカドがあり、それ故に竜馬からしても理解しえる『男』達である。しかるの、この終盤になって登場する人々は、八方美人で、クセもカドもない、それ故に、捉えどころのない、謂わば『顔』の見えない人々として描かれていたように想う。
 この『クセ』(一癖ある、と言うときのクセである)や『カド』が、どうも司馬さんの描く『漢』の条件のようだ。その点は、私が『男』に抱くイメージに一致しているようだ。

 こうした司馬さんの作品に登場する魅力的な『漢』の中でも、実は、私が最も好む人物がいる。『峠』の主人公であり、幕末の越後長岡藩の最後の執政となった河合継之介である。竜馬が『天馬、空をゆく』の言葉で評されたように、土佐藩の下士に生まれながら、藩と言う範疇を遥かに超えて、文字通り天に昇っていく幕末一の『自由人』のイメージがあるとするならば、継之介は、あくまで譜代である牧野家の上士としての立場と意識に固執し続ける。彼が、世界や将来を見通す力を持っていなかったからではなく、当時としては稀有なほどの、そうした見識を有しながら、敢えてその立場に固執しつづける。おそらくは、それがどうような未来に繋がるかを意識しながらである。その『地を這う』にも似た姿が、時にたまらなく美しいと想う。自由に大空を羽ばたいていく姿と同様に、美しく凛々しく見えるのだ。拘りを捨てることの大切さも認めながら、拘り続けるものの美しさ、涙が出るのだ。
作品名:「漢(おとこ)」とは 作家名:梵風