少女
あるあたたかい日の昼下がり。わたしは木陰のベンチで飴玉を舐めていた。頬を片方ずつ膨らませ、舌で丸みを弄ぶ。そろそろ小さくなってきた。次が欲しいけれど、ポケットにあるのは包み紙だけのはずだった。
ところが、指先になにかが触れた。包み紙かと思ったが、明らかになにかが入っている。取り出してみると、それは覚えのない飴玉だった。とりあえず包み紙を剥がす。まだ生まれるべきではない雛のいる卵を、思い切り踏みつぶすような気分になる。食べるかどうかは、見た目で決めようと思った。
上からちらりと覗く太陽に透かすと、半透明の球体はわたしを捉えて離さなくなった。奇妙だ。飴玉の中身が、液体なのだ。いや、液体かどうかもわからない。飴玉の中に何かいる。……魚? そう、魚の様なもの。泳いでいる。自由自在に……。小さな飴玉の中の、更に小さい魚。どうしよう、綺麗、食べちゃいたい……。
いつの間にか、子宮を連想していた。
「そこのお嬢さん。その子はわたくしのいとし子ですのよ。どうぞお返しくださいな」
突然、遥か頭上からの声。そのくせ足までじいんと伝わって、そこから地面が揺れるような声。魚の親……人魚? それとも魚が喋っているの?
「これはあなたのものですか?」
どこか、懐かしい声。
「申し訳ないけれど、わたくしは此処の番人なので動けないのです。届けてくれたらなにか御馳走しましょう。涼しいところでね。いらっしゃい」
「……どこへ?」
わたしは乗気になっていた。なんとも現金な女だ。けれど、自分の好奇心に嘘はつきたくなかった。
「わたくしのお友達をそちらに寄越しましたわ。じきにあなたの元へつくはずです」
「わかりました。御丁寧にありがとう」
改めて飴玉を太陽に透かそうとして、指先がべたついていることに気が付いた。溶けてしまっては大変だから、慌てて包み紙に直しポケットへ入れた。
木々がざわめき、ほんの数秒、雲の動きが加速した。何事も無かったかのように雲はまたゆっくりと動き出す。後ろを振り向くが何もいない。もう一度元の方向を向き直すと、想像とは全く違う、パーカーを着て猫耳のついたフードをかぶり、下はジーパンという格好の少年と思しき人――少女かもしれない――そもそも人なのかもわからないが、とにかく誰かが俯いていた。髪の色は黒。
「人使いが荒いわね。うちの女王は」
面を上げて見えた顔は第二次性徴期を終えた青年のものだった。少女ではなかったし、少年とも言い難い。
「ああ、これは失礼。申し遅れた、礼を欠いたわ。ギミックと申します。以後数分程、お見知りおきを。ミス・メイデン」
ミス・メイデンとはわたしのことなのか。いやしかしこの口調は……見た目は男性のはず……。いや、難しいことは考えまい。
「わたしをどこへ連れて行く気?」
「我が女王の元へ。母なる羊水の中へ。母なる海の中へ。一粒の涙の中へ」
「水の中ってことはわかりましたよ」
「なら結構。参りましょうか」
丁寧そうな態度に少し緊張が和らいだ。そこで疑問を口にした。
「どうしてわたしが行かなきゃいけないんですか? あなたが持っていけばいいじゃないですか」
途端、青年のパーカーの猫耳が二、三度動き、鳥肌が立った。地面から水滴が湧き出し、寒気を覚えた。宙に浮いた水滴は、青年の周りを回り続ける。青年がふっと息を吐くと、それらは忽ち一か所に集まり、小さな……軽自動車くらいの真っ白な鯨が現れた。青年は迷うことなくその鯨に跨り、わたしをじっと見つめた。
「後ろに乗ってください。乗り心地は悪くないはずですが、振り落とされないように気をつけて。ぼくに掴まっても構いません。あなたがお嫌でなければですけれど」
暫し放心した後、ここはお礼を言うべき場面なのだと気付く。質問の答えはくれないのだろうか。
「ありがとうございます」
制服のスカートを気にしながら鯨に跨り、青年のパーカーをそっと掴む。鯨がぬっと動き出し、地面がどんどん離れて行った。
「……ぼくではそれに触れられないのですよ」
「それって、飴玉のことですか?」
会話は途切れてしまった。仕方なく黙って考えを巡らせる。そこではたと思い当たる。そういえば、水の中に行くんじゃなかった?
「ああ、じきにつきますわよ」
あれですよ、と指差されたのはまたしても鯨。だが今自分達が乗っているそれとは違い、大きい。あまりにも、大きい。
「そろそろだと思うんですけれど。ごめんなさいね。暫しお待ちを」
ギミックは慣れた仕草でパーカーの袖を捲り、腕時計を確認した。
ほんの少し、焦れる。次のテストはいつだったか。どうせ勉強などしない癖に、そんなことを考える。これまでと違う世界へ手を伸ばし足を踏み入れる感覚が、徐々に身体を蝕んでいく。
「こわい? 随分といまさらですわね」
「あなた――ギミック、わたしの考えを読むの?」
「顔に書いてありましたよ」
「……そんなことないです。ただ、わくわくして、ぞくぞくするだけですよ」
「悪寒っていうんですよ、そういうの」
「好奇心って言ってくださいよ」
ギミックは何も言わずに笑った。
ああ、来ましたと彼が呟くと、大きな鯨はご機嫌如何と陽気に歌い、思い切り潮を吹いた。潮の雫の一粒――一粒というには余りにも大きいそれがわたし達に向かって降ってきて、思わず息を吸い込んだ。
「ゆっくりと、呼吸して」
青年の呟きは、なぜだか卑猥に聞こえた。躊躇いがちに握っていたはずのパーカーに、皺が寄っていた。目を瞑る。
「あ……」
「さあ、目を開けて。あなたが涙を零せば、世界は完成するわ」
彼はそっと、わたしの上唇を舐めた。しょっぱかった。理由のわからない涙が零れた。腰の奥がチリリと焼けた。
ところが、指先になにかが触れた。包み紙かと思ったが、明らかになにかが入っている。取り出してみると、それは覚えのない飴玉だった。とりあえず包み紙を剥がす。まだ生まれるべきではない雛のいる卵を、思い切り踏みつぶすような気分になる。食べるかどうかは、見た目で決めようと思った。
上からちらりと覗く太陽に透かすと、半透明の球体はわたしを捉えて離さなくなった。奇妙だ。飴玉の中身が、液体なのだ。いや、液体かどうかもわからない。飴玉の中に何かいる。……魚? そう、魚の様なもの。泳いでいる。自由自在に……。小さな飴玉の中の、更に小さい魚。どうしよう、綺麗、食べちゃいたい……。
いつの間にか、子宮を連想していた。
「そこのお嬢さん。その子はわたくしのいとし子ですのよ。どうぞお返しくださいな」
突然、遥か頭上からの声。そのくせ足までじいんと伝わって、そこから地面が揺れるような声。魚の親……人魚? それとも魚が喋っているの?
「これはあなたのものですか?」
どこか、懐かしい声。
「申し訳ないけれど、わたくしは此処の番人なので動けないのです。届けてくれたらなにか御馳走しましょう。涼しいところでね。いらっしゃい」
「……どこへ?」
わたしは乗気になっていた。なんとも現金な女だ。けれど、自分の好奇心に嘘はつきたくなかった。
「わたくしのお友達をそちらに寄越しましたわ。じきにあなたの元へつくはずです」
「わかりました。御丁寧にありがとう」
改めて飴玉を太陽に透かそうとして、指先がべたついていることに気が付いた。溶けてしまっては大変だから、慌てて包み紙に直しポケットへ入れた。
木々がざわめき、ほんの数秒、雲の動きが加速した。何事も無かったかのように雲はまたゆっくりと動き出す。後ろを振り向くが何もいない。もう一度元の方向を向き直すと、想像とは全く違う、パーカーを着て猫耳のついたフードをかぶり、下はジーパンという格好の少年と思しき人――少女かもしれない――そもそも人なのかもわからないが、とにかく誰かが俯いていた。髪の色は黒。
「人使いが荒いわね。うちの女王は」
面を上げて見えた顔は第二次性徴期を終えた青年のものだった。少女ではなかったし、少年とも言い難い。
「ああ、これは失礼。申し遅れた、礼を欠いたわ。ギミックと申します。以後数分程、お見知りおきを。ミス・メイデン」
ミス・メイデンとはわたしのことなのか。いやしかしこの口調は……見た目は男性のはず……。いや、難しいことは考えまい。
「わたしをどこへ連れて行く気?」
「我が女王の元へ。母なる羊水の中へ。母なる海の中へ。一粒の涙の中へ」
「水の中ってことはわかりましたよ」
「なら結構。参りましょうか」
丁寧そうな態度に少し緊張が和らいだ。そこで疑問を口にした。
「どうしてわたしが行かなきゃいけないんですか? あなたが持っていけばいいじゃないですか」
途端、青年のパーカーの猫耳が二、三度動き、鳥肌が立った。地面から水滴が湧き出し、寒気を覚えた。宙に浮いた水滴は、青年の周りを回り続ける。青年がふっと息を吐くと、それらは忽ち一か所に集まり、小さな……軽自動車くらいの真っ白な鯨が現れた。青年は迷うことなくその鯨に跨り、わたしをじっと見つめた。
「後ろに乗ってください。乗り心地は悪くないはずですが、振り落とされないように気をつけて。ぼくに掴まっても構いません。あなたがお嫌でなければですけれど」
暫し放心した後、ここはお礼を言うべき場面なのだと気付く。質問の答えはくれないのだろうか。
「ありがとうございます」
制服のスカートを気にしながら鯨に跨り、青年のパーカーをそっと掴む。鯨がぬっと動き出し、地面がどんどん離れて行った。
「……ぼくではそれに触れられないのですよ」
「それって、飴玉のことですか?」
会話は途切れてしまった。仕方なく黙って考えを巡らせる。そこではたと思い当たる。そういえば、水の中に行くんじゃなかった?
「ああ、じきにつきますわよ」
あれですよ、と指差されたのはまたしても鯨。だが今自分達が乗っているそれとは違い、大きい。あまりにも、大きい。
「そろそろだと思うんですけれど。ごめんなさいね。暫しお待ちを」
ギミックは慣れた仕草でパーカーの袖を捲り、腕時計を確認した。
ほんの少し、焦れる。次のテストはいつだったか。どうせ勉強などしない癖に、そんなことを考える。これまでと違う世界へ手を伸ばし足を踏み入れる感覚が、徐々に身体を蝕んでいく。
「こわい? 随分といまさらですわね」
「あなた――ギミック、わたしの考えを読むの?」
「顔に書いてありましたよ」
「……そんなことないです。ただ、わくわくして、ぞくぞくするだけですよ」
「悪寒っていうんですよ、そういうの」
「好奇心って言ってくださいよ」
ギミックは何も言わずに笑った。
ああ、来ましたと彼が呟くと、大きな鯨はご機嫌如何と陽気に歌い、思い切り潮を吹いた。潮の雫の一粒――一粒というには余りにも大きいそれがわたし達に向かって降ってきて、思わず息を吸い込んだ。
「ゆっくりと、呼吸して」
青年の呟きは、なぜだか卑猥に聞こえた。躊躇いがちに握っていたはずのパーカーに、皺が寄っていた。目を瞑る。
「あ……」
「さあ、目を開けて。あなたが涙を零せば、世界は完成するわ」
彼はそっと、わたしの上唇を舐めた。しょっぱかった。理由のわからない涙が零れた。腰の奥がチリリと焼けた。