法定寿命~双つの世界~【前編】
少し離れた場所で男の影が見えた。全く気が付かなかった。その影は我々二人の姿を確認するとどこかへ走って消えた。
「…やっぱり俺のこと知らないんだ。」
「えぇ、でも、あなた、悪い人じゃなさそう。」
ストーカーは去ったが我々は腕を組んだまま夜の街を歩いた。
しばらくの沈黙の後、女が切り出した。
「お礼しなきゃね。ホテル、入る?」
「いいよ、そんな気分じゃないし。あぁ、あそこのバーに入ろう。」
「えっ、アソコのバー(棒)?」
女が私の股間を指さす。私は思わず吹いてしまった。女の口からそんな下品なギャグが飛び出すとは思いもしなかった。しかし改めて彼女の顔を見ると、それまでの気品に溢(あふ)れた印象とは違って、いたずら好きの少女のような可愛さを感じる。なんとも不思議な女だ。
店に入ると私はこれまでに身の回りで起きたこと、そして元の世界での女との出会いなど話した。
「へぇ〜、あなた頭大丈夫?って言いたいところだけど…、ふふっ、まぁいいわ、信じてあげる。」
私は夢の中で女に騙(だま)され突き落とされた話もした。女は終始笑顔で私の話を聞いていた。
「…あたしは使者でも無ければ、あなたを騙(だま)すつもりも無いし、元の世界へ戻してあげることすら出来ないし、ゴメンね。」
「いや、いいんだよ。君が俺を知らない時点で諦(あきら)めてたから…」
確かに残念な気持ちは大きかったが、他方ではスッキリしてもいた。この世界に来て、自分の話を誰かに話すことはこれまでなかった。しかもこれだけじっくり聞いてくれて、とてもうれしかった。
「…あたしねぇ、その内会社作ろうと思うの。」
「へぇ、女社長だ、カッコイイね。で、何の会社?」
「輸入雑貨の会社。規模は小さくてもいいから経営者になりたいの。だから今は事業資金を貯めてるとこ。あっ、今は起業しなきゃ損な時代よ。それに女社長なんて言い方、失礼よ。差別用語だわ。この世界では女が経営者なんて当たり前。あなた、まだ元の世界を引きずっているんじゃないの?ここはあなたのいた世界とは違うの。きっともっと住み良い世界よ。」
いろいろ女と話した後、お互いの成功を祈って別れた。彼女には夢を叶えて欲しいし、彼女ならそれが出来ると思う。しかし、果たして私には成功はあるのか…
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私はいつしか音楽への情熱は消え、バイトをしながら孤独な生活をしていた。あの女以外、私の過去を誰かに話したことはない。話したところで信じてもらえず、呆(あき)れられるのは火を見るより明らかだ。
あれから何年経つだろうか…
この社会では元の世界に比べ高齢者に充てるお金が抑えられているので、その分、成長分野に多く投資できる。過去の負の遺産(=借金)にもメドが見えてきた。財政は健全化しつつある。一方で地方分権が進み、地方の裁量(さいりょう)が大きくなった分、一部お金の使い方に失敗した自治体も見られる。失敗した地方からは増税、行政サービスの低下のため脱出者が後を絶たず、結果成功している自治体に人口が集中。二極化が進んでいる。しかし国全体から見れば人口が集中する分、社会インフラの投資、維持管理費が節約出来、良い結果を生み出しているようだ。
所得格差はあるが、自殺者は多くはない。ベーシックインカムのお蔭(かげ)だろう。ただ老齢人口は今後数年内に一旦ピークアウトする見通しではあるものの、それまでは法定寿命は下げ止まらない。ちなみに一旦というのはその後に第二次ベビーブーマーのピークが控えているからだ。元の世界では第一次ベビーブーマーの社会保障費が問題になっていたが、もっと深刻なのは第二次ベビーブーマーのそれだ。一次の負担は主に二次が負うが、二次の主な担い手はいない。なぜなら第三次ベビーブームは起きなかったからだ。状況はこの世界でも似たようなもので、第二次の彼らの法定寿命は一体いくつになるのだろうか?ただこの世界は負担を次世代に求めないのでまだマシだが、元の世界では果たしてどうなるのだろうか?少なくとも私が元の世界にいた間にはそうした問題に警告を発するような話はほとんど聞かなかった。単に私の耳が悪かっただけなのか…
出生率は若干増えたが、未(いま)だ2.0には遠く及ばない。そこで数年前から出生率を上げるための議論が盛んになってきた。例えばこんな具合だ。
「恋愛感情が続くのはせいぜい三年だ。これは脳科学的に裏づけのある話であり、そしてこのことが種の繁栄にとって、とても重要な意味を持つ。種を繁栄させるには様々なパートナーが出会い、結果、たくさんの子孫を残す必要がある。つまり三年ごとにパートナーを変えることこそ種の存続を守る鍵なのである。さて、現在の婚姻(こんいん)制度はどうであろう。種を存続しようとする生物本来の本能に従うと確実に罰を受ける仕組みになっている。人類が自らの滅亡を願うのであればこの制度を存続することに異論は無いが、そうでなければ本来あるべき姿に変える必要がある…」
こんな意見もある。
「最近、男性の精子が弱っているそうだ。この問題の原因は現在の婚姻(こんいん)制度にある。パートナーの数が一人に限定されているために、弱い精子の男性でも他から強い精子が入り込むスキがないので妊娠させることが可能だからだ。本来淘汰(とうた)されるべき弱い精子がゾンビのように生き残れば、世代を経て、いずれ妊娠できなくなるほど弱った精子が増える。そうなれば人類はアウトだ。それを防ぐには同時に複数の男性の精子を競争させる必要がある。強い精子のみ生き残るのだ。人類の繁栄を望むのであれば不倫を合法化する必要があるし、そうなれば人類の未来は明るいものとなるであろう…」
どちらも正論に聞こえる。その昔に行われていた風習、夜這(よば)い婚の一種に近いのかも知れない。実際にこれらの案が採用されるかどうかは不明だが、少なくとも現在の婚姻(こんいん)制度を見直さない限り、出生率の大幅な向上を望むのは難しいようだ。
「出生率が低いのは現在の婚姻(こんいん)制度自体に問題があるためだ。現在の婚姻(こんいん)制度とは勿論(もちろん)一夫一妻制だ。この制度の欠陥はパートナーを一人しか選べないという点にある。よく考えてみよう。候補となるパートナーの数は理論上、異性の人口の数だけいることになる。国内で限っても人口一億人の国ならば、その約半数の五千万人もの多くの人数が結婚相手の候補となるのだ。であるのにも関わらず、現在の制度に則(のっと)ればこの五千万人から一人に絞らなくてはならない。言い換えると五千万分の一の確率で正解を選ばなければならないことになる。
作品名:法定寿命~双つの世界~【前編】 作家名:鷲尾悟司