イカ×スルメ
耳を澄ませば
「ソフトイカくーん!」
どれだけ声を張り上げても、帰ってくるのは波の音。彼の声は聞こえない。もっと、もっと耳をすませて。微かな音も逃さぬように。
浜辺を歩く。帰りが遅い。彼の向かった場所は分からない。私が目を醒ました時は、もう彼の姿はなかった。
日が昇り、そうしてまた夕暮れ。私はこの夕暮れを見るのが好きだった。夕暮れの後は夜が来た。夜は私たちにとって、危ない。でもその前の赤い海が私は好きだった。いや、もしかしたら、危うさを伴う美しさが好きだったのかもしれない。そのまま朽ちてもいいと、何度も思った。その度に、彼が連れ戻した。早く帰れと怒る彼が、帰ってこない。
「ソフトイカくーん!ソフトイカくーん…」
何度も何度も名を呼んだ。
聞き逃さないように、耳をすませた。
でも、聞こえない。聞こえない。
「…あ、れ…?」
その代わりに見つけたのは、白い背中。夕日に照らされた赤い背中を見つけた。思わずたじろいだ。足が逃げようと竦むが、それよりも先に彼が私を見つけた。その鋭い眼光が、私を捉える。しかし、その目はいつもとどこか違ったように見える。逃げたい。でも目があったのに逃げたら…顛末を予期して、私は踏み出した。
「マイカさま…」
「…僕の名前を呼ぶな!」
その言葉に身を竦めた。何故、呼ぶなと?それにしても様子がおかしい。不審に思いながらも、頭を下げた。
「申し訳、ありませんでした…」
彼はその不機嫌そうな声から一変して、笑顔で私に聞いた。
「何をしているの?」
「…その、ソフトイカが帰らなくて」
「ふうん、それでお迎えに来たって訳かい?仲良しだね、君たち」
「あ、いえ…それえほどでも」
にこにこと笑う彼。何を考えているのか、分からない。けれどいつもの彼より接しやすくて、私は内心ほっとしていた。
「君はソフトイカが好きなんだ?」
「え?」
「何で好きなの?」
「え…別に好きというか、それはこの間も言ったとおりに、友人として…ええっと…ソフトイカとは、実は同郷のよしみでして…」
「スルメイカだから?」
「あ…まあ、不思議と仲間意識もありますから…」
何でそんなことを聞くのか。不審に思いながらも、おずおずと答えた。
「ふうん、そうなの。で、僕はどう?僕のこと好き?」
「…あの、それはどういう…?」
「そのままの意味。ね、怒らないから、正直に言ってみてよ。本当だよ、何もしない」
何もしない?その言葉に不安を覚えた。けれど、その瞳が私を射抜く。生きたいきものの目に、私は逆らえない。嘘を言っても、バレる。勘のいい方だから。
「…私は、きらいです」
ためらい勝ちに言ったその言葉に、彼は顔色一つ変えない。答えなど、予測していた?彼は冷静に私に尋ねた。
「具体的にはどこが?」
その質問に、私も静かに答えた。こんな風に彼と話したのは初めてかもしれない。
潮風が吹いていた、波の音がしていた。私の声と、彼の声が、静かに響きあう。
「あなたは、とても幼いから」
「それってどういう意味?」
「そのままです」
「ね、それって僕が君を自由にしたり、君を従わせたりしてるから?」
「間違ってはいませんが、間違ってもいます」
「えっ、意味わかんない。君は言葉が不自由なイカなの?」
「そういうところです」
くすくすと、思わず笑う。私は笑う。けれど、彼は怒らない。不思議そうに私の顔を見ている。
「あなたはね、きっと素直なだけ。純粋なだけ」
「素直なのが、駄目なんだ?素直なのが一番だろ?だって、嘘をついたり、騙したり…あははは、最低だもんね!だから僕は正直なんだよ。嘘は吐かない、それだけじゃないか。でも君は、僕の素直さが嫌いなんだろ?じゃあ僕がうそつきになればいいわけ?好きになってくれるわけ?」
「…あなたが、優しさの意味を知ったら」
「知ったら?」
「その時は…きっと」
「好きになる?」
「ええ」
「本当?約束だよ?」
「ええ」
思わず、苦笑いした。いつも大人びた口調の彼が、歳相応に見える。
私は優しい気持ちになれる。それを、どうすれば、伝えられるだろう?
不思議そうに聞いていた彼が、すくりと立ち上がり、私の傍へ駆け寄ってきた。私の肩に手を伸ばす。荒々しい手つきではない、いつもよりもずっとずっと優しく。
そうして私に微笑みかけた。
「君に優しくしてあげる」
「あはは、ありがとうございます」
「だから、好きになって。いい?今からいいこと教えてあげる、僕は優しいからね。ソフトイカを、捜してるんだろ?知っている、案内してあげる。だから、約束したこと、守って」
性急な彼の話しに私は苦笑いをせざるを得ない。
「え…それは、優しくなったら、の話で」
「僕は優しいから、君に教える。ソフトイカの場所を教えるんだ。先も後も同じ、僕は約束を守るから、君も守れ。優しい僕が好きなんだろ?だから、今すぐ、好きになって」
「そ、それは難しいと」
「じゃあ、教えない!君からキスして、僕を好きだって、言って?言いながら、キスをして。そしたら、教える。僕は約束を守るよ。嘘なんか、吐かない」
「しかし…」
しかし、彼が私に向けた目は今までのどんなものよりも、真剣だった。切なげだった。彼が映すのは、赤い、赤い、夕日。きらきらと光る。危うさを伴う、美しさ。
私は、ゆっくりと彼に口付けをした。磯の香がした。故郷のにおい、優しい…
「…好きです、マイカさま」
吐息まじりの声だった。切なく響いた。それが何故かは分からない。自分で発した声なのに…そっと唇を離した瞬間、マイカさまが私の軟骨を強く押して、私は後ろに倒れた。彼は嬉しそうに笑いながら、ステップをする。
「っいた…」
「あは、あはは!ありがとう!」
踊るようにまわる。くるくると。そんなに嬉しかった?そんな、まさか。
私は砂の上に倒れたまま、彼を見ていた。彼は私に笑う。今までみたこともないような笑顔で笑う。
「僕も好きだ!君のことが好き、好きで…好きなんだよ、スルメ」
そうして、ゆっくりと動きを止める。海の瀬戸際、彼の表情は夕日が黒く隠して見えない。私はそのまぶしさに目を細めた。そして、遠く聞こえた声に、また、切なさを覚えた。
「…あは、だからっ…、ごめん…今まで、…いま、まで、」
「マイカさま!?」
しかし、様子のおかしいマイカさまに私は顔をぱっと上げた。苦しげな声、それが私に謝る。何を?今までのこと?それを何故、いま?
「好きだよ、ありがとう!僕も好き!約束を、守るよ。こっちに来て」
「でも、そっちは海っ…」
そこで、気付いていまった。
嫌なことに気付いた。頭の中がぼおっとした。それなのに、あなたの泣きそうな、明るい声が響いた。それは波よりも強く、潮風の音よりも、鳥のはばたきよりもずっとずっとずっと、強く。
「約束は守る。ソフトイカのところへ、行こう。僕も行くよ、一緒に、行くから…!スルメ」