イカ×スルメ
海の声
『あんたはワシらと同じ乾物だが、ワシらよりも優れている』
『優れて…?』
『そうじゃ、あんたもワシも加工品。だが、あんたは無添加、無着色じゃ。気をしっかり持ちなされ、自信を持って、そんなに背を丸めて歩いてたんじゃ、炙られたアタリメみたいじゃぞ!ホレホレ!』
『わわっ…』
遠い昔の話、私がまだアタリメになって間もない頃。
元気のない私を、ソフトサキイカのおじいさんがそう、励ましてくれたことをふと思い出した。
ソフトイカや、ソフトイカ、スルメソーメン、スルメジャーキー、その類は大抵味付けをされているのに比べて、私は幸いにも無添加だった。引き裂かれることもなく、原型を辛うじてとどめている。身を引き裂かれた彼らとは違う、私はイカの味がするスルメだと、元気付けられた。
だから、何だというのだろう。
その当時は、正直、少しだけ優越感があった。暗闇の中で見つけた唯一の光でもあった、ひとつの誇りだとも。でも、マイカさまに出会ってから、少しずつ私のその考えは海の泡となって消えた。
他より優れていたら、偉いのだろうか。優れているって何だろう。同じイカなのに、どうして、こうも違う?以前、私が他の加工食品に抱いていた優越感という名の感情は、平等に見れば、私を冷たく見下すマイカさまが持つものときっと同じだと思った。
足下を見て、下にいる人を見て、そして自信を持て、と。そんなのは小さいイカのすることだ。いや、まっとうなホタルイカだってこんなことはしない。だから…彼は、憐れに思える。しかし、それを正すことはできない。正す?いや、違う。それこそが彼の正義に違いないのだから。
「何を言っても無駄、でしょうねえ…」
私の言うことなど、聞かないのだから。今日だって、ほら。
吸盤をもがれた手を見た。
私は海に潜れない。乾燥している私には、必要のないもの。海で生きているならともかく…そう、なのだ。もう必要のないものなのに。こんなにも悲しい、こんなにも空しい。
暫く、赤くなった海を眺めていた。
どうしようか、漠然と考えて、終わる。誰にもこんな姿を見せたくない。今日はこのまま、ここにいようか。そうして夜を迎えて、潮が私を取り巻き、私は湿気に負けて、少しずつ、少しずつ、腐っていけばいい。誰にも会わないですむな。私の体は波に捕らわれ、海に帰り、そうして鮪に食べられることもなく、小さな小魚の糧となり…それもいいかもしれない。
「アタリメ!」
ふと、後ろから聞き覚えのある声がした。
慌てて振り返ると、ソフトイカくんが砂を蹴って私の方に歩いてくる。私は驚いて、咄嗟に逃げた。こんな姿、見られたくない!
「あっ、ちょ…アタリメ!」
「来ないで下さい!」
「アタリメ!?あいつに何かされたんだな!されたんだろ!」
私は海辺に上がった乾燥した名も知らぬ海草を引っつかみ、体を隠しながら走る。けれど、その海草が私の足に絡まって、私はうまく走れない。
「待て!逃げんな!」
走る、逃げる。逃げれば逃げれば、海草は私の足に絡まっていく。それを解こうとすればするほど、また絡まり、私はついによろけた。よろけた最後、私は完全に砂に足を取られて転ぶ。
「わ、っ…」
「ばか!大丈夫か!」
倒れこんだ私にすぐに駆け寄るソフトイカくん。私は再び慌てながら海草で体を隠した。
「…っ、行ってください…!」
「はあ?」
「私を放っておいてください…見ないで…」
「…マイカか?」
「……」
「あいつだな!その無言がお前の肯定だ!見せろ!」
「あ、だめ…見ないで下さい…!」
ついに剥ぎ取られてしまった海草に、私は目を瞑った。見られたくない、こんな姿。こんな吸盤をとられてしまった姿なんて…。
ソフトイカくんの息を呑む音が聞こえて、私は泣きそうになった。どうか、どうか、そっとしていて。それ以上を望むなら、どうか、嫌わないで。
「…他に、怪我は?」
彼は私に海草をかけた。そうして静かにそう聞いた。私はただ首を振って、縋るように、呟いた。
「…放っておいて下さい」
「駄目だ、手当てしなきゃ。潮風にも、随分当たってるし」
「いいんです、私は…このまま」
「っこのまま!なんだよ!腐る気か!?」
「…こんな風に醜くなってしまった私を、見られたくないんです…!見られたくなかった!あなたにも…!」
そう叫ぶ、叫んだ声が掠れる。ひどく彼の腕を、胸を押して拒否した。けれども彼は退かず、彼は私の肩…軟骨あたりをしっかりと抑えて、しっかりとした声で言う。
「醜くなんてないだろ…!」
その声に、私は目を開けた。彼の真剣な眼差しが、まぶしい。
「醜くなんてない、たかが、吸盤…そう行ったら、お前は怒るかもしれねえけど!でも、違うんだ。お前は何を失ってもお前だ、アタリメなんだよ!だから…そんなこと言うなよ」
ぎゅと抱きしめられた腕が柔らかい。乾いた私の体を優しく潤す。
「俺は…お前が例え、ミミだけになったって…お前のこと、好きだよ」
「…え…?わあっ」
「しっかりつかまってねーと、落とすかもしんねーかんな!」
「ちょっ、サキイカくん!」
「あはは、騒ぐなよー」
聞き返す間もなく、彼は私を抱き上げた。
そして少し冗談を言い合ったあと、私たちはずっと黙っていた。
ずっと黙っていた。それは恥じらいか。それは悲しみか。分からない。波の音だけが、響いていた。