朝日に落ちる箒星
2.久野智樹
こうして台所に並んでいると、君枝の背の低さに驚く。
俺の背は男の中でも高い方だし、君枝の背は女の中でも低い方だ。その差が凄い。
俺はそうめんを茹で、氷水でしめる係、薬味を刻むのは君枝の係。
空調は少し低めの温度に設定したのに、けちってつけた四畳半用エアコンでは威力が無くて、鍋から立ち上る湯気で汗が噴き出してくる。
料理慣れしている君枝はあっという間に薬味を切り終え、戸棚に置いてある適当な皿に乗せる。
「もういいんじゃない?」
掛けられた言葉にハッと我に返る。君枝が薬味をセッティングする所に見惚れていたら、自分の仕事を忘れていた。
「一人でうちに来るのって、初めてだよね」
少し茹ですぎたそうめんを啜りながら君枝に訊ねる。
「そうだね、いつも賑やかなその他三人がいたからねぇ」
苦笑しながら、薬味のミョウガを椀に摘み入れる。
去年は何だかんだで俺の家が使われる事が多かった。君枝が泊まって行った事だってあった。それでも必ず一緒にいるのは塁だった。あいつがここにいないと、妙に緊張し、箸が滑ってなかなかそうめんがすくえない。
「これからは、二人でいる事の方が多くなるのかもね」
君枝の言葉に俺は、緊張が動揺に変わった。
俺だって男だ、好きな女とそりゃ、あんな事したり、こんな事したり、したくもなる。二人でいる事が増えたら、もっとしたくなる。
でも彼女は男性恐怖症。もともとは、男に触れられる事すら拒んでいたのだ。更に、背が高く、手が大きい男は特に苦手。俺の事か。
「まぁ、俺は一緒にいる時間が増える事は嬉しいけど、ね」
彼女をちらりと見て言うと、彼女は一瞬呆けた顔をしたけれど、それがすぐにくしゃくしゃの笑顔に変わった。「そうめんおいし」と言いながらもぐもぐしている。
考えてみれば、男一人の家に上がり込むこと自体、彼女にとってはかなりハードルが高い事な訳だ。それを易々とこなしてきているという事は、彼女がかつて言っていたように、俺の事を信頼してくれている証なのだろう。
そうなると、その信頼を裏切らないためにも、己の欲望は押入れの奥にでもしまっておいて、彼女から何か言い出すまでは俺は彼女に触らない方が良い。
あぁ、何で俺、そうめん食いながらこんな事、考えてるんだろう。
目の前にあったそうめんは、あっという間になくなった。
「ちょっと足りなかった? 適当なつまみ出すから座ってて」
俺は彼女にそう促したが、彼女は洗い物を買って出てくれた。
俺は湯を沸かし、いつかの夜のように緑茶をいれた。実家に住んでいた頃からの俺の癖なんだろう。夕食後は夏でも温かい緑茶を飲んでいる。
戸棚に入っていたせんべいや、実家から送られて来た菓子を少し、お茶と一緒にテーブルに出した。
洗い物を終えた彼女は手をひらひらさせながら席に戻った。
「あ、いっただっきまーす」
子供の様な笑顔で、そこに置いた小さな饅頭に手を伸ばした。
「甘い物、好き?」
俺はあまり得意ではないので、実家から送られてきても余りがちなのだ。こうして人が来た時にさっと出すためのストックとして取ってある。サークルで集まった時にも、何気ない顔をしながら皿に甘い物を投入していた。
「甘い物好きだなぁ。ケーキとかも好きだし、和菓子も。智樹は?」
「いやぁ、苦手なんだよ、本当は。まぁクリスマスケーキとか特別な時は食べるけどな」
俺は目の前に出した甘い物との矛盾に自嘲した。そう、結局、彼女のためにこのお菓子類を出したような物なのだ。
彼女は目の前にある菓子をじっと見つめ、何かを考えているようなので、俺は口を噤んだ。
「ねぇ、智樹の誕生日って、秋って言ってなかったっけ?」
「十月十日だけど?」
俺は彼女に向けて、なぜ?と首を傾げた。
「誕生日会やろうよ、実は私、十月八日なの」
「まじでか」
サークルでは季節の行事は大体の事をやってきたが、誕生日会はやっていなかったので、俺は拓美ちゃんと君枝の誕生日を知らなかった。
「プレゼントはなしね。毎年やるたんびにプレゼントが増えちゃうから」
そう言って彼女はカラっと笑った。思わず、別れた理恵と比べてしまう。
理恵は、プレゼントは男が女にあげる物だと思って疑わない奴だった。だから俺は毎年、少ない仕送りから小銭をかき集めて、何かしらプレゼントをしていた。さすがにプレゼント内容に文句こそ言われなかったものの、俺は一度たりとも理恵に祝ってもらった事がない。
そんな事より君枝が、「毎年」誕生日を祝う事を想定してくれているなんて、俺の想定外だ。二人の関係がいつまでも続くと思っていてくれているのなら、ありがたい幸せだ。
「そうめんじゃなくてさ、そうだな、鍋とかどう?で、ケーキ買って、お祝いしない?」
目の前には茶菓子しかないのに、そこに鍋やケーキが実際に並んでいるように、楽しそうに語る彼女を見ていると楽しくて、俺は口元を緩めながら話に聞き入った。
「二十歳だもんな。ワインでも買うか」
俺はワインを口にした事があるが、君枝はどうだか知らなかった。でも彼女は何も言わなかったし、スパークリングワインでも開けようかと考えていた。
それに合わせてワイングラスとか、買っちゃう?毎年何となく過ごしてきた誕生日が、途端にイベントらしくなってきた事に、少し浮き足立っている自分がいる。
「じゃぁ、決まりね。十月九日にやろうか?間をとって」
「うん、そうしよう。買いだしも、一緒に行こう。スーパーまで」
そう言うと何故か途端に恥ずかしくなって、俺は赤面したのだけれど、彼女は平気な顔で、その動作が返事だとばかりに少し顔を傾けて俺に笑いかけてくる。可愛くてたまらない。
張り合ったって仕方ない。それでも思ってしまう。塁より前にいる。塁より先にいる。俺は君枝の彼氏で、君枝を守って、愛して行くんだ。
塁が俺より先んじた事は、俺が追い付ておかないといけない。
「じゃぁ、そろそろ帰るね」
その場を立ち上がった彼女は、手元にあった茶碗をシンクに置くと、鞄を手に玄関へ向かった。
「あのさ、君枝」
肩までの髪がさらりと揺れて、少し笑みをたたえた顔がこちらを振り向く。
「空港で、塁とキス、してたよね」
彼女は少し身を固くするのが、雰囲気で察知できた。それでも俺は、喉のすぐそこまできている言葉を、抑える事ができなかった。
「何も、関係を急いでる訳じゃないんだ。それでも、軽く、キス、できないかな」
俯いてしまった彼女は、鞄を持つ指を真っ白にしている。俺は彼女の髪に反射する光をじっと見つめていたが、それがさっと後方に動いた。
彼女は笑顔を見せた。
「軽く、からスタートしようね」
そう言うと、彼女は一歩だけこちらに近づいた。
俺は、身体を伸ばせば届くギリギリぐらいに近づき、まるでキリンが餌をついばむみたいに首を伸ばして彼女の唇に触れた。
彼女は俯いているが、口端が上向いている。
「こういうのも、恥ずかしくなくなると、いいな」
そう言って顔をあげ、視線が合った瞬間に俺は目を伏せた。
うまい言葉が見付らなくて「そだね」と言って両手で頬を抑えつけた。ムンクの「叫び」みたいだ。手の温度が冷たく感じられる。
「じゃぁね」