朝日に落ちる箒星
16.久野智樹
塁は東京にいる美術家や画家さんのところを二〜三日かけてまわるらしい。
俺は塁に合鍵を持たせ、見送った。
君枝の家から帰ってきた塁は、君枝の話は一切しなかったし、俺からも何も話さなかった。ただ、今の師匠についたのは、君枝の肖像画が切っ掛けだという事を話してくれた。
ずっと描けないと言っていた君枝の目が、描けたのかもしれない。その目は暫く見ていなかったけれど、きっと俺とセックスしようとしたあの日や、星野との一件で俺が追及されたあの時にも、その目をしていたのかも知れない。
俺はあの目をして貰っては困るのだ。それなのに、酷い事をして、今後も俺とセックスする度に、昔の親父さんの事と星野の事を思い出し、あの目をして、吐き気と共に苦しむのだろう。俺は何て事をしてしまったんだろう。
俺は水曜の午前の実習が長引いて、昼飯を一人で食べた後、部室に向かった。椅子に座って暫く待ったが、君枝は来なかった。窓際の椅子が揺れる事は無かった。そのうち門に向かって出ていく学生が増えてきて、窓際の椅子を照らしていた太陽が俺の所まで伸びてきた。エアコンをつけていない部室は冷えてきて、俺は上着を羽織った。もう君枝は来ないだろう。
ドアの向こうで足音がした。が、その足音は無残にも部室の前を左から右へと通り過ぎて行った。期待した自分がまた腹立たしくて、下唇を強く噛んだ。結局俺はそのまま家に帰った。
塁は夕飯を済ませてから帰ってきた。
「おかえり」
「おう、お邪魔しますでただいま」
すたすたと部屋に入ってくると、寒いな、と言って冷蔵庫の側面に手を当てた。
「今風呂入れるから、ちょっと待っとけ」
そう言って俺は風呂を洗った。向こうの部屋からよく通る声で「矢部君には会ったのか?」と訊かれた。俺の声はどちらかというと通る声ではない。だからそのまま無視した。いや、無視した訳ではない。風呂を洗い終わってから話そうと思ったのだ。
適温になった湯をそのままに、風呂に栓をして塁の元へ戻った。
「会って無い。毎週水曜日は部室で何となく過ごすんだけど、今日は来なかったよ」
塁はふんふん頷いて俺の携帯をぱかぱかと開いたり閉じたりしている。何を考えているのか読めない男だなと、つくづく思う。フランス行きの時もそうだったが、今もそうだ。かと思えば、敵意剥き出しの時もある。気持ちをわざと見せつける時がある。面白いやつだ。
「連絡はしないの、矢部君に」
「できねぇだろ、この状況で」
そうですかねぇ、と言ってまたぱかぱかやっている。
「じゃぁその合宿とやらまで、何も話さないつもり?」
片方の眉をあげて、俺の方を見遣る目線には、何となく糾弾する感情がこもっていた。
「話さないっつーか、話せない、んだよ。俺からは。言い訳と謝罪しかないからさ」
ぱたん、と携帯を閉めた。それをテーブルに置く。暫くの沈黙に、風呂場からお湯の音が流れてくる。
「正直な所」塁が口を開く。
「矢部君の前では『俺なら絶対にしない』、なんて言い切ったけどさ、もし俺が女性経験があって、セックスに慣れてたらだよ、智樹と同じ事、してたかもしんないよなぁって」
うん、と俺は項垂れたまま頷く。塁に分かって欲しいとは思っていないけれど、塁が分かってくれようとしている事が嬉しかった。それでも、笑えなかった。
「俺と矢部君、キスしたんだよ。矢部君の家で」
俺の視界がぼやけた。それは怒るべきところなのか、受け入れるべきところなのか、瞬時に判断がつかなくて、ただ頭をあげてぼーっと塁を見た。口は開いているのに、声が出なかった。
「矢部君は、智樹が怒るかも知れない、怒らないかも知れない、分からないって感じの返事だった。お前に酷い事されておきながら、それでもお前の事きちんと考えてるんだよ、矢部君は」
塁は俺に強い視線を浴びせたまま、離さない。風呂の水が表面張力を押し切って、洗い場に流れ出し始める音がした。それでも俺は動けない。捉えられたままの視線が、外せない。
「これ以上、矢部君に酷い事するな。皆に良い人だと思われなくてもいいから、矢部君にだけ優しくしろ。じゃないと、俺が傷つく。矢部君が泣いてると俺は苦しいんだよ」
言っている事は痛い程よく分かった。本当に痛くて、こういう時は胸の辺りがちくちくとするんだと初めて知る。君枝と塁は一心同体みたいなものだ。君枝が傷つけば塁が傷ついて、君枝が笑えば塁も笑うのだ。そして彼らがどう思うかは、俺の行動にかかっているのだ。
「合宿に行くまでに、ケリを付ける。別れる事になっても仕方がないけど、きちんと話す」
「別れるなんて俺様が許さん。そんな事になったら俺が仲裁に入る」
片眉をぐいっと上げて、こちらをちらりと見ながら笑みを浮かべている塁の表情を見て、俺は心の底から安堵した。君枝と一心同体の塁が、笑ってくれた。今度は君枝を笑わせる番だ。
「おっと、風呂のお湯が溢れてる音がするぞ智樹」
そうだった、と俺は速足で風呂場に向かった。