朝日に落ちる箒星
9.久野智樹
部室に入ると、もう既に君枝が塁の椅子に座って脚を上げていた。
「お疲れ」
俺もお疲れさん、と声を掛け、適当な椅子に腰を掛けた。
「遅かったね」
君枝は俺に目線を寄越さない。それが何故だかは何となく察しがつく自分が憎い。
「さっきの、星野さんに実習の事で質問されちゃってさ。星野、と久野、で五十音順でペアになっちゃったんだよ」
ゆらゆらとゆらしていた塁の椅子がぴたりと止まった。が、またそれは君枝の体重が前後する事によってゆらゆらと動き始めた。左耳に髪を掛けると、彼女の耳からは空色に輝くクリスタルが揺れていた。そんな事が俺の安心材料になる。
「それ、付けてくれてるんだね」
彼女は耳に指を遣り、ふっと溜息のようにうっすら笑みを浮かべる。どこか、よそよそしくて、俺は居心地が悪かった。
「気にしてる?」
「何が?」
「星野さんの事」
自分からこんな事を訊くのはおかしいと思ったけれど、彼女の態度が露骨にいつもと違う理由はほかに見当たらなかったから仕方がない。
彼女はしばらくゆらゆらと椅子を動かし「塁は何してるかな」と目線を、狭い窓から見える青く澄んだ空に遣った。その目はとてもとても遠くを見ていて、俺は追いつく事が出来ないと思える程遠かった。
「別に私は気にしてないよ」
急に現実に戻ってきたような、しっかりした声でこちらを向いて言うので俺はたじろいだ。
「ただ、至君と拓美ちゃんが、気を付けてって。気を付けてって、私はどうしたらいいんだろうって分からなくって」
言いながら首を傾げて笑っている。声は笑っているのに、顔は妙にひしゃげているような気がして、俺はじっとしていられなくて彼女の傍に行った。そして床に膝立ちになり、横向きに座る彼女を抱きしめた。
「大丈夫だから。何もないから。加藤君と同じだよ。授業で一緒なだけ。それだけだから」
腕の中でこくりと頭が縦に揺れたのをきっかけに、俺は腕を解いた。
と、その時ちょうど俺の携帯がメールの着信を告げた。しかも二回もだ。
「誰だろ」
尻のポケットから携帯を取り出して確認すると、至と拓美ちゃんからだった。二人とも殆ど同じ内容のメールだった事に一人で吹き出してしまった。
「至と拓美ちゃんが、俺にダメだしをしてきた」
そう言うと君枝は声は出さずに笑顔を見せ、もうこの話はこれでいいだろうと思った。
「今日、俺の家で飯、食って行かない?」
携帯をパタンと閉じて彼女の顔色を伺うと、彼女はこちらにぱっと視線をくれて「そうしよう」と今度は彼女が携帯を開いて、母親にメールをしているらしかった。
指を絡めてスーパーまで歩いた。
十一月の夕方は、秋と冬の真ん中で、今日はどちらかというと秋に近く、茜色の空にカラスが横切って行くのが何となく寂しくて、俺はそっと目を逸らした。もう少し寒い方が、もっと君枝に近づける気がする。そんな邪な気持ちを神様に悟られたら、きっと俺には天罰が下る。
今日は生姜焼きを作る事にした。君枝の得意料理らしい。「料理って言ったって焼くだけだけどね」と言っていたが、俺が作ると肉が固くなってしまうから、あまり作らないメニューだった。
「キャベツは家にある?」
「うん、半玉はあったと思う」
野菜を手に取る度に、繋いでいる手を離して、またすぐに繋ぐ。スーパーにいる間ぐらい、手を離していたって良いのだろうけれど、少しでも傍にいたくて、そんな事は女々しい事だと分かっていても、俺はすぐに彼女の手を取ってしまうのだった。
「そろそろ、手を離そうか」
そう言われたのは、俺が片手で玄関の鍵を探すのに苦労している時だった。
「あ、そうだね」
耳のてっぺんにちりちりと熱が沸いてくるのが分かった。俺は鞄の中を探って鍵を取り出し、ドアを開けた。
「今日は私一人で作るから」
そう言って彼女は手慣れた手つきで料理を始めた。もう何度か来ているこの家の台所の、どこに何があるかは大抵把握できているようで、俺は彼女が料理する後姿を眺めつつナイター中継を見ていた。今日は日本シリーズの第二戦が中継されていた。
ふと、もし自分たちが夫婦になったらこんな風な毎日を送るのか、と想像してしまった。また神様にばれたら天誅を食らう。
テーブルに並んだのは、千切りキャベツを添えた生姜焼きと、マカロニサラダと、味噌汁だった。気取っていなくて、それが逆に特別な気がして、頬が上がる事が自分で制御できなくて困った。身体は正直なんだよな。
「ご飯中はテレビ見る派?」
「俺の実家は見ない派だったけど、ナイター中継だけは許されてたね」
ふふふ、と君枝が笑ったので、何が可笑しいのか分からないけれどこのままナイターを見ていてもいいなと判断して俺は野球を見ながら生姜焼きを食べた。
「何か、実家に帰ったみたいな気がする」
料理の中に懐かしさのような物を感じてそう言うと、「嬉しいなぁ」と言って箸を持ったまま彼女はこめかみを掻いた。困った時や照れた時、こうやってこめかみをぽりぽりと掻くのは、彼女の癖のような物なのだろう。結局ナイター中継なんて全然目にも頭にも入って来なくて、彼女と何だかんだ話しているうちに西武が三点も入れていたのには驚いた。
今日も洗い物を彼女に任せ、俺は茶菓子と緑茶を出した。
他愛もない話をし、彼女は「じゃぁそろそろ」と言って席を立ち、コートを着た。俺もジャケットを着て、「送りはいい」という彼女を制して、駅まで送ると言った。
玄関の前で彼女は振り返り、「ねぇ、一応、こういう時はキス、して帰ろうかな」と途切れ途切れの言葉を落としたので、俺は驚いたけれど、やっぱり身体は正直で、頬が持ち上がり「うん」というそのひと言でさえ上ずった。
玄関で彼女は背伸びをして、俺は少し頭を下げて、大人のキスをした。俺とこういう事をする事に対しては抵抗が無いらしい。それなのに次に彼女から発せられた言葉に俺は首を捻った。
「何か、ごめんね」
申し訳なさそうに俯いて言う彼女の中に「何が、何で?」と理由を探した。
「これ以上になかなか、進めなくって。ごめんね」
そこで合点がいった。
「それはさ、いいじゃん。ゆっくりいこうや」
そう言うと彼女はまたこめかみをポリポリと掻きながら、目じりを下げ、靴を履きながら「ゆっくりいこうや」と俺の言葉を繰り返した。