小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【前編】Ⅰ

INDEX|3ページ/9ページ|

次のページ前のページ
 

 その部屋というのが赤ちゃんのいる新生児室の前なのだと告げられ、今更、いやだと言えるはずもなかった。
 こじんまりとした病院ではあるが、外観はオシャレなペンション風だし、部屋は病室とは思えないほど内装も明るい。ベッドは病院特有の作りではなく、ごく普通の家庭で使われるようなデザインだ。姫風の部屋あり、シンプルなブルーで統一された部屋ありと、さながらレディースホテルのような雰囲気である。食事は三度ともこれも豪華で、ホテル並み、こんなところで出産できるなら、願ったり叶ったりだろう。
 しかも、院長はまだ三十代半ばで、無口ではあるものの、腕は確かで患者の立場になって考えてくれる優しい医師だと評判である。院長は愛想が良いというのではなく、寡黙ではあるけれど、患者の気持ちに寄り添ってくれるところから、一人目を産んだ妊婦がまた二人目以降もここで生みたいと願うケースが圧倒的に多いそうだ。
 手術の三日後には、点滴も外れ、歩行訓練が始まっている。歩き始めは多少のふらつきはあったものの、手術自体はこれで二度目だから、戸惑うことはなかった。
 その日、紗英子は診察を受けるために二階から一階の診察室まで降りた。診察室へと至る待合室にはいかにも座り心地の好さそうなソファが何列にも並び、お腹の大きな妊婦が何人も腰掛けている。
 紗英子は努めてそちらを見ないようにしながら、何の気なしに一番前に置いてある大型液晶テレビを眺めていた。
 太ったお笑い芸人が何か芸を披露しているらしく、母親に連れられてきている小さな子どもがしきりに画面を見ては笑っている。
 男の子で五歳くらいのその子は、赤ちゃんを抱いた母親の膝に掴まってぴょんぴょんと跳びはねていた。
「ねえ、ママ、だから、何だと思う?」
「お父さんがたっくんにくれたプレゼントね? さあ、何かなぁ」
 母親の方はまだ二十代後半か三十になったばかりというくらいだろう。
 紗英子が直輝と結婚したのが二十三だったから、すぐに子どもが生まれていれば、丁度、あんなものだったかもしれない。
 母親の腕にはまだ明らかに新生児だと判る赤ちゃんがピンクのおくるみに包まれて眠っていた。女の子なのだろうか。
「飛行機なんだよ、飛行機。ラジコンでね、本当に飛ぶんだよ。凄いでしょ」
「良かったね、たっくん」
「ボク、もう泣かないんだよ。ママがいなくても、頑張ってお留守番するんだ。だって、六歳になったし、来年は小学校に行くし、お兄ちゃんだからね」
「偉いねぇ」
 大好きな母親に褒められ、男の子は得意げに小さな鼻をうごめかしている。
「でも、クリスマスはママも赤ちゃんも一緒にお祝いできるよね?」
「そうね、あと二週間もあるから、大丈夫。ママ、あさってには赤ちゃんとおうちに帰るから。たっくん、もう少しの辛抱だから、パパやおばあちゃんと待っててね」
 涙がこぼれそうになり、紗英子は慌てて眼の奥で涙を堪えた。
 何というささやかだけれど、幸福な光景だろう! 子どもが当たり前のようにいて、母親が子どもと微笑みながら話している。
 誰もが平等に与えられるはずの幸福でありながら、何故、自分にだけ神さまは与えてくれなかったのだろう。
 と、男の子がふいに顔を上げた。知らず母子を見つめていた紗英子と眼が合う。
 男の子の顔に無邪気な笑みがひろがり、紗英子に物怖じせずに話しかけてくる。
「おばちゃんもお腹に赤ちゃんがいるの?」
「これ、拓也」
 母親の方が慌てて止めた。
「済みません」
 母親の方は出産前のマタニティパジャマのまま、紗英子の方はごく普通のパジャマである。しかし、六歳の幼児にその違いが判るはずもなく、ましてや、妊娠初期であれば、お腹が膨らんでいないから、妊婦かどうかは判らない。
 紗英子は微笑んだ。
「良いんですよ」
 母親の方に頷いてから、男の子に優しく応えた。
「おばちゃんは赤ちゃんを産むために入院したんではないの。病気を治すために来たのよ。ボクの新しい家族は妹?」
「うん! 知(ち)早(さ)ちゃんっていうんだよ。名前はパパとボクで考えたの」
「そう、良い名前ね。おめでとう」
 おめでとうございます、と、紗英子は母親にも笑顔で告げた。
「ありがとうございます」
 母親はどこか引きつったような顔で頷き、慌てて男の子を促した。
「たっくん、お部屋に帰るわよ」
 母親は赤ん坊を抱いたまま、足早に離れてゆく。
「うん、じゃあね」
 男の子は無邪気に紗英子に笑いかけ、手を振る。紗英子もまた笑って手を振り返した。
「拓也、何してるの、行きますよ」
 ヒステリックに息子を呼ぶ母親に向かい、男の子は駆けていった。
「駄目じゃないの、赤ちゃんのいない人にあんなこと訊いたら、失礼でしょう」
 降りてくるエレベーターを待ちながら、母親の方が男の子を叱りつけている。
 幼い子どもには何も悪気があったわけではない。むしろ紗英子が傷ついたのは、子どもの方ではなく母親の態度のせいであった。子どもをたしなめるのは親としては当然の行いであろうが、何もわざわざ衆目の中で―しかも紗英子当人に聞こえる場所で口にしなくても良いではないかと思う。
 現に、母親の言葉が引き金になったように、待合室にいた数人の妊婦が窺うように紗英子の方をチラリと見た。紗英子にはそれが辛かった。
 名前が呼ばれるまでにはなお二十分ほどかかったが、それまでの時間の何と長く感じられたことか。むろん、皆、大人だ。あからさまな視線は寄越さないものの、時折、ちらちらと寄越される好奇心の入り混じった視線が堪らなくうっとうしいものに感じられた。
 紗英子はまたしても滲んできた涙をまたたきで散らした。待合室の片隅には大きなクリスマスツリーが飾られている。そういえば、あと二週間もしない中に、クリスマスがやってくる。
 その瞬間、自分たちの結婚記念日が三日後に迫っていたことに気づいた。直輝はこういった夫婦の記念日については結構、マメな男である。よく釣った魚に餌はやらないタイプの男もいるらしいが、彼は違った。夫婦の記念日には必ず結婚式を挙げたホテルに予約を入れ、ディナーをご馳走してくれる。また、そのときにプレゼントしてくれる贈り物も欠かさなかった。
 今、花柄のパジャマの上に肩から羽織っているのは、二年前にプレゼンしてくれたカシミヤのショールだ。赤と黒のオシャレなタータンチェックが印象的で、肌触りも良いし温もりもある。確か何とかいう有名なブランド物だとか直輝が言っていた。
 直輝は結婚前からオシャレでセンスもあった。何を隠そう、二人は中学時代からの同級生なのだ。元々は紗英子の親友の有喜(ゆき)菜(な)が直輝と同じクラスで、紗英子は有喜菜の紹介で直輝と知り合った。有喜菜と直輝が中一で同じクラスになり、席がたまたま隣同士になったことで意気投合したという。
 その後、二年で紗英子と直輝が同じクラスになり、有喜菜は一人、別のクラスになった。紗英子と直輝がつきあい始めたのはその頃からのことになる。