黒の光
それからヒカリは、自分の家の周りが何者かに見張られているような気がしていた。だからなるべく、夜遅くは出歩かない様に気を付けていた。しかし、ある晩、いつもの仕事が遅くなってしまい、帰る頃には辺りはすっかり暗くなってしまっていた。ヒカリは足早に家へと向かったが、路地裏から何者かに見張られているような気がしていた。それでも、眼の前に家が見えてきたとき、ほっと一息ついた。しかし、その瞬間。路地裏から何か黒い塊がヒカリの前に飛び出してきた。闇黒だ。闇黒に襲われた者は決まって行方不明になっている。つまり、捕まってしまうと逃げる術がないという事だ。ヒカリは悲鳴を上げた。よく見ると、闇黒の赤い目玉が其処ら中からヒカリを睨みつけている。逃げ場がない……。ヒカリはもう成すすべがなく、目をつぶり、ひたすら神に祈るしかなかった。
神様……。どうか助けてください。どうか……。誰か助けてっ!!
闇黒が一斉にヒカリに飛びかかってきた、その時、ヒュンと空気を切る音が聞こえた。ヒカリが目を開けると、闇黒の群れがヒカリから少し遠ざかっていた。そして、眼の前には黒い外套を着た少年が立っていた。少年の首からはあの逆十字架が眩い光を放っていた。少年は逆十字架を手に取り、剣へと変えた。
「あなたは……?」
「神様じゃなくて悪かったな。神とは正反対の存在さ。悪魔とでも何とでも呼べばいい。もちろん、クロでもな」
「ど、どうして、クロの事を……? あなたはまさか……」
ヒカリが言い終えない内に、少年は闇黒たちへと飛びかかっていき、次々と倒していった。ヒカリはその光景を唖然として見ていた。
突然、闇黒の群れが引いていった。そこへヒカリには見覚えのある男が現れた。
黒スーツの男……。
「ククク。やはり現れたか。その小娘を見張っていて正解だったようだ」
その少年と黒スーツの男は知り合いのようだった。
「飼い猫風情が人間の小娘に惚れたか? 傑作だな。ハハハ」
「俺はあんたの飼い猫じゃない」
少年は剣を黒スーツの男に向けた。
「ほう。飼い主に刃向かう気か? 良いだろう。調教してやるよ」
黒スーツの男は手の中から真っ黒い刀身の刀のようなものを取り出した。ヒカリはそれを見た瞬間に分かった。この男は人間じゃない……。そして、あの少年も……。
少年は男に飛び掛って行った。少年は剣で何度も男に斬りかかったが、男は黒い刀でいなす様に軽々と少年の剣を受け止めた。どう見ても黒スーツの男の方が一枚上手に見えた。少年が隙を見せたとき、男が一撃を少年に与えた。少年の身体は軽々と吹き飛び、壁にぶつかり、そのまま項垂れてしまった。少年はピクリとも動かなかった。
「他愛もない」
それから男はヒカリの方をじろりと睨めつけた。ヒカリはあまりの恐怖に身を震わせた。
「さて。飼い猫も回収できたことだし、あなたには感謝しなくてはいけませんね」
男は不敵な微笑を浮かべ、ヒカリに近づいてきた。ヒカリは逃げようと思い、辺りを見回したが、既に闇黒たちによって囲まれていた。
「お礼に苦しまずにひと思いに殺して差し上げましょう」
男はニヤリと口元を歪ませ、ヒカリに向かって黒い刀を振り上げた。ヒカリは目を瞑った。
グシャと肉が切れる鈍い音と赤い鮮血がヒカリの顔に飛び散った。眼の前にはあの少年がヒカリを庇うようにして覆いかぶさっていた。ぱっくりと斬られた背中の傷口から鮮血が流れ出ていた。
「な、何でこんな事を……」
少年の顔が間近で見えた。ヒカリには直ぐに分かった。やっぱり、あの黒猫のクロだ……。
「あなたは、あのクロなの?」
少年は微かに微笑んだ。そして、消え入るような声で、ごめん、とだけ言った。
「クロ。しっかりして! 死んじゃ駄目! 何で、何で私なんかのために……」
男が冷ややかな目で少年を見ていた。
「本当にそうだ。こんな小娘のために野垂れ死ぬとはな。馬鹿な奴だ。安心しろ。二人仲良くあの世に送ってやろう」
男が刀を振り上げた。ヒカリの涙が少年の十字架にぽたりと落ちた。少年の逆十字架はいつの間にか元の大きさに戻り、少年の手の中で握られていた。それは偶然にも反対向きになり、十字架の形を成していた。
ヒカリの涙が落ちた瞬間、その十字架から大きな光が放たれた。十字架は少年の手を離れ、宙へと浮かび上がっていった。その間にも十字架を包む光はどんどん大きくなり、それは夜の闇を照らす太陽のようにも見えた。
闇黒たちはその光を浴びると、霧のように霧散していった。黒スーツの男も悲鳴を上げ、霧となって消えていった。しばらくして、光は収まり、十字架は少年の元へ戻った。そして、いつの間にか少年の傷が癒えていたが、少年の身体は他の闇黒たちと同じように黒い霧となりつつあった。
「どうして? あなたまで消えるの?」
ヒカリはそう言いつつも、少年はあの闇黒や黒スーツの男と同じような存在であることに感づいていた。ヒカリは最期に少年に尋ねた。
「あなたは何であそこにやってきたの?」
少年はか細い声で答えた。
「俺は永い間、真っ暗な闇の中に居たんだ……。そしたら、光が見えて……。凄く美しい光だった。俺はその光に憧れて……、光をずっと追いかけていたんだ……。ずっと、君のことを……」
少年はそう言い残し、微笑みながら、ヒカリの腕の中で黒い霧となって消えていった。ヒカリは少年のことを思い、涙を流した。
翌朝、ヒカリは昨日の出来事は夢だったのかと思いながらも、いつものように教会へと祈りを捧げに行った。ヒカリは祈った。もう自分が救われないことへの嘆きではない。あの少年の魂がどうか救われるようにと祈った。
相変わらず絵になるな。聖母様のようだ。
ヒカリは背後から誰かに声をかけられたような気がした。しかし、振り向いても誰もいなかった。しかし、確かに何かしらの気配がする。その時、にゃあと鳴く声がした。そして物陰から黒猫がひょっこりと出てきた。その黒猫の首からはあの逆十字架が提げられていた。
「クロ!」
ヒカリはクロを抱きかかえた。
「良かった……。本当に良かった……」
教会のステンドグラスから差し込んだ光は、クロとヒカリを優しく包み込んでいた。