超短編小説 108物語集(継続中)
ムッとするほど息吹く新緑の中に、くねくねとした登山道の軌跡が残る。それを洋介は容赦なく後方へと置き去り、もっともっと急勾配な山道を這うようにしてなんとか登り切った。
するとそこが頂点、『こっから峠』だ。
「ハア、ハア、ハア…、よっこらせ」
息が上がった洋介は、何はともあれ峠の一軒茶屋のくすんだ緋毛氈の縁台に腰掛ける。これで酸欠気味の身体に血が回り出したのか、フーと安堵の息を一つ吐く。それからおもむろに今来た坂道に目を戻すと、足下に初夏の木々が生い茂り、その先に日常の暮らしがある町並みが広がる。
「ああ、俺はちょっと違う世界に移住したくなって、ここまでやって来た…、いや四苦八苦の俗界から逃げ出してきたのかも知れないなあ」
こんな不明瞭な考えを巡らせながら、茶屋の先へとゆるりと目を移す。そこでは視界が眼下へと大きく開けている。そして、まるで宇宙人が住むような異次元のタウンが遠望できる。
「あの町ではまた違った生き方ができるのかも…、さあて、どうするか?」
手を顎へと持って行き、二、三度擦ってみる。このように思い迷う洋介に、天に染み入る美声が穏やかに、背後から響き被さる。
♪ こっから峠 こっから峠
先は地獄の淵か、天国か?
まだまだ人生見習いの
はな垂れ小僧に 自己中娘
超えてみようか、超えまいか
迷うておるなら 飲みなはれ
母(カカ)の茶一服 味わいなはれ
渋い緑茶に 茶柱立てば
越えてみなはれ こっから峠 ♪
こんな文句に節を付け、初老だが背筋がツンと伸びた、まるで精霊のような面持ちの婦人が現れ出てきた。
この女性こそ峠の茶屋の女将だ。
作品名:超短編小説 108物語集(継続中) 作家名:鮎風 遊