超短編小説 108物語集(継続中)
癌を患い、やせ細った父。私は父を見舞うため帰郷した。
母に支えられて寝室から出て来た父、私を手作りの茶室へと招き入れ、一服の茶を点ててくれた。
私は茶道の作法を知らない。それでも漆黒の茶碗の中で、泡立つ鮮やかな青緑色の薄茶(うすちゃ)をゴクゴクと飲み干した。
「祐輔(ゆうすけ)はまだまだはな垂れ小僧だなあ。だけどお前には、この茶碗での一気飲みが似合ってるようだ」
侘び寂びの感性を持たない私に、父は笑みを浮かべた。それから一語一語を噛み締めるように。
「たった一客の茶碗のために、それは絶望への道だったかも知れない。だからと言って、後悔しているかと言うと、そうでもない。むしろ達成できなかった自分が……、愛おしい」
私にとって父は威厳に満ちた孤高の人だった。それにしてもどうしてこんな弱気な言葉を、父は吐いたのだろうか? ひょっとすれば、聞いてはならないことを聞いてしまったのだろうか? 私はただ沈黙するしかなかった。
父子の間に、少し歪んだ閑寂が漂う。それでも父は茶碗の汚れを黙々と拭き取り、木箱に仕舞い込んだ。
「祐輔、この茶碗、お前にやる」
唐突に、私の前へと差し出された桐箱、その蓋には『絶望一飲一啄(ぜつぼういちいんいったく)』と銘が打たれてあった。
これって、どういう意味? 私は訊きたかった。だが次は、まだ人生修養が足らんなあと言われそうで、「うん、ありがとう」とだけ返した。
されどもこの一時が、父との今生の別れになってしまうとは。仕事へと戻って、一週間後に父は逝ってしまったのだ。
作品名:超短編小説 108物語集(継続中) 作家名:鮎風 遊