深海の熱帯魚
27 太田塁
「こらー、君達、起きなさい」
俺は大声を張り上げた。ビクンとした智樹が先に目を開けた。それに続いて矢部君が目を瞬かせている。
「何、お手てなんて繋いで寝てんのこのバカチンが!」
智樹のおでこを近くにあった雑誌でバサっと打ち付けた。
起きた時に見えた光景に俺は驚いた。まず布団二組に三人が寝ている事に驚いた。そして矢部君が男と至近距離で眠れている事。
更に驚く事に......矢部君と智樹が手を繋いで寝ている事。
俺は昨日、酒を呑んで記憶を無くしてしまい、どういう経緯でこうなったのかさっぱり分からない。もしかして二人の間に何かやんごとなき事でもあったのではないかと邪推する。
俺が指摘するとすぐに二人は手を離し、智樹も矢部君もこっちが恥ずかしくなるぐらい頬を赤く染めている。矢部君は枕元にあった眼鏡に手を伸ばした。
時計は十時を指していた。
「もう十時か。俺ら何時に寝たんだろ、覚えてないなぁ」
呆けた様に呟いている智樹の身体に俺はタックルを食らわした。
「何時に寝たか覚えてないだと、女の子を隣にそんなはしたない事を言うんじゃありません。お母さん怒りますよ!」
タックルした俺の事は片手であしらい、パタパタと布団を畳み始めたのを見て、矢部君も同じように畳み始めた。
「矢部君は酔っぱらって寝ちゃったの?」
布団を両手に持ち、智樹にそれを渡しながら「一度起きて、布団に移動してから寝たよ」と言うので、考えてみたら俺はどうして布団にいたのか、謎だった。
「俺、寝ながら立ちあるいた?」
二人がどっと笑ったので俺はムっとした。
「智樹君がお姫様抱っこして塁を布団に置いてくれたんだよ」
矢部君が珍しく挑発的な目線を俺に向ける。智樹にお姫様抱っこされるぐらいじゃ俺は別に、俺は......十分恥ずかしい。
「え、もしかして矢部君もお姫様抱っこ?」
「違います」
良かった。矢部君が智樹にお姫様抱っこされてる所なんて想像したくない。俺は激しく混乱するだろう。
それじゃなくても、好きな二人が手を繋いで眠っていた事に酷く混乱しているのだから。
昼飯は智樹がパスタを茹で、久野家にある食材で矢部君がトマトソースを作った。俺はその後姿を見ながら、また複雑な思いだった。
二人であれやこれや言いながら台所に立っている姿はまるで新婚カップルだ。俺はどうした、俺はそこに入れないのか。
「矢部君、君は料理が出来るんだね」
俺は出来上がったパスタをフォークで突きながら矢部君に視線を遣った。パスタは文句なしに旨い。
「うちね、母子家庭だから、必然的に料理するようになったんだ」
初耳だった。母子家庭なのか。俺は両親がいないけれど、少し近づいた様な気がした。
しかし俺は親がいなくても料理をする必然性がなく、料理が全然出来ない。この点においては、一人暮らし歴が長い智樹の方が、矢部君に近づく。俺は何が言いたいんだ。
「このあと、君枝ちゃんとDVD観るけど、塁はどうする?」
智樹は視線も上げずにパスタを頬張っている。智樹は俺がいない方が嬉しいのかも知れない。それでも俺は、二人が好きなのだ。どちらも手放せないのだ。
「俺も観る」
そう言うと、二人は「やっぱりね」などと顔を合わせて言うのだった。昨日何があったんだ。俺は新婚家庭に遊びに来た友達じゃないんだぞ。
結局、DVDを二本観て、帰る事になった。
昨晩智樹は俺と同じく彼女に手袋をあげたらしいが「今日は塁と帰るから黄緑」と言って俺があげた手袋をはめて外に出た。彼女が着ているグレーのダッフルコートに、黄緑色がアクセントになっていて、ほっと胸を撫で下ろす。
雪でも降りそうな寒気が、頬を射す。もう夕方で、日が翳り始めている。
駅までの道すがら、俺は昨晩の事を尋ねた。
「おい、昨日の夜、智樹と何があった?」
彼女は俺の顔を意味ありげに見つめ、プッっと笑った。
「何だよ、何で笑ってんだよ」
俺より上からの目線で物を言った事が無い矢部君が、俺を笑っているという構図が何だか妙だった。
「良かったね、塁。君たちは両思いだよ」
俺は目をぱちくりさせた。気付くと足が止まっていた。
「どした?」
振り返る矢部君に「どうゆうことだ?」と尋ね、再び足を動かした。心なしか、脚が震えている。まさか矢部君枝、智樹に全て言ったんじゃなかろうな。そうなったらここで滅多刺しだ。
「布団にいなかった塁を抱っこして布団に連れてきたから、放っておけばいいって私は言ったの」
薄らと笑みを浮かべる矢部君が少し怖い。俺は「で?」と先を促す。
「そしたらね、放っておけないんだって。心配だって。塁の兄貴でいたいんだって。愛されてる証拠だよ」
滅多に赤くならないと自負している俺の頬に、血液が集まってくる感覚があった。
「顔、赤いですよー」
持っていた鞄で顔を隠した。暫く冷たい風に当たっていれば引いて行くだろう。
「で、矢部君は智樹に、手を握って寝てくれとか言われた訳?」
暫く経って頬の熱感が通り過ぎていってから俺は攻撃に転じた。彼女は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をし、二の句をつげずにいる。
「あら、図星?」
俺は薄ら笑いを浮かべ、人差し指で彼女の二の腕をコートの上からツンと突くと、彼女は顔を真っ赤にして俯いてしまった。暫く口を開きそうにない。
そのうち何か言うだろうと思ってお互い無言で歩いていた。無言で歩き続けていると、本当に無言のままで、駅まで着いてしまった。
「あの、何か喋ってください」
俺は改札口で彼女の方を向いて、顔を覗き込んだ。と、彼女はスッと顔を上げ、俺を見据えた。
「私が手を握ったの。智樹君が優しいから、手を握りたくなったの。塁の大好きな智樹君が言いだしっぺじゃないからね。それじゃ、ここで」
彼女はおかっぱ頭を翻してIC専用の改札口に消えて行った。
俺はその場で立ち尽くした。
矢部君が智樹の手を、自ら握ったのか。どういう事だ。矢部君はやっぱり智樹の事が好きなのか。智樹はきっと矢部君の事が好きだろう。そうすると相思相愛じゃないか。俺は邪魔している事になるのか?
それでも俺は、矢部君も好きだし、智樹も好きだ。どうしたらいいんだ、この状況。
性別的には俺は矢部君を落としにかかるべきなんだろうが、それでは智樹と仲たがいする事になる。いや、優しい智樹の事だから、俺に譲るかも知れない。そんな智樹は見たくない。幸せで赤くなってにやけているような智樹が俺は好きなんだ。
ホームに電車が入る音が階下から響き、俺は慌てて改札をくぐり、矢部君とは反対側のホームに駆け降りた。冬の冷たい空気は思考をクリアにしてくれて、ある意味残酷だと思う。