深海の熱帯魚
26 矢部君枝
「布団敷くから、ちょっと待ってて」
智樹君は立ち上がって隣の部屋へ歩いて行くので「床で寝るからいいよ」と言ったのだけれど、彼はその言葉の真ん中で手をこちらへ向けて言葉を制した。
二組の布団が敷かれ「二つしかないんだ」と無表情で言い、片方は掛布団まできちんと掛け、もう一つは掛布団を半分以上捲ってあった。
「そっち側に寝てくれる?」
掛布団まできちんと掛かっている布団を指差され、私は「はぁ」と何とも気の抜けた声で返事をして布団に向かった。私と入れ違いで彼は薄暗い部屋に入り、塁の元へと歩いて行った。
「こいつ、一度眠ると朝まで起きないんだよ」
そう言うともぞもぞとテーブルの影で何かしていると思ったら、ひょいと塁を持ち上げて、掛布団を捲った所へ彼を置き、そして布団をかけてやった。塁はそんな事を知らずにスースーと寝息を立てて幼子の様な顔で眠っている。
私は智樹君の男らしい動作に見惚れた。そこに「男」を感じたのに不愉快さが全くない。
智樹君は本当に優しい。塁はいつも智樹君と取っ組み合っているけれど、こういうちょっとした優しさを知っていて、彼の事を好いているのかも知れない。
「あれ、智樹君はどこで寝るの?」
布団が二組しかないとなると、必然的に布団以外で眠る事になる。
「俺は別にどこだっていいから。あ、さっき君枝ちゃんが掛けてた毛布で寝ちゃおうかな」
普段あまり見せない、少しやんちゃな笑顔でこちらをちらっと見て、結局塁が使っていた毛布を床に敷いて、私が使っていた毛布を掛けて横になった。リモコンで電気を消した。
「ごめんね、迷惑かけて」
塁の向こうにいる智樹君に声を掛けたが、彼が被りを振るのが雰囲気で分かった。
「女の子に風邪ひかしちゃ悪いからさ」
隣に寝ている塁の背中を見ながら私は訊ねる。
「塁は?塁なんてその辺に転がしておけばよかったのに」
すると向こうからフハハッと笑いが起こり「確かにな」と智樹君が毛布を掛け直すのが見えた。
「塁、両親がいないんだ、知ってた?」
「うん、それは聞いた気がする」
それで今は親戚の家で暮らしている、という所までは。
「両親、事故で一気に亡くしたんだ。親戚の家っつったって、つい最近までは他人みたいに暮らしてた人たちと一緒に生活する訳だからさ、コイツなりに気を遣ってるんだろうな。俺はこいつの兄貴みたいな存在でいてやりたいんだ。だから色々心配になる」
塁の身体越しに聞こえる智樹君の声は温かくて、優しくて、今すぐ塁を叩き起こして聞かせてやりたかった。君の大好きな智樹君は、君を愛してくれてるんだよ、と。
「塁も、智樹君を兄弟同然に思ってると思うよ」
そうか?と少し笑いの混じった声で言う智樹君が、とても大人に思える。
なぜなんだんろう。智樹君は塁の事を話し、塁に優しさを向けているのに、私は智樹君の声や言葉、優しさに惹かれて行く。
隣で寝息を立てている塁に惹かれている筈の私が、智樹君に惹かれて行く。混乱する。額に手を当てて、一度大きく深呼吸をする。
あの男も優しかった。一人だった母に手を差し伸べ、私の父になると宣言し、私にとても優しくしてくれた。いつも手を握ってくれて、頭を撫でてくれて、可愛い、可愛いと言ってくれた。
それがいつしか裏切られた。あの優しかった手は、私を凌辱する手に変わった。男の優しさなんて泡沫なんだと、私は乱暴されている最中に無表情でそう思ったのだ。
でも、この一年近く、智樹君や塁達と一緒に過ごす中で、本当に優しい男の人だって世の中にはいるんだって、分かった気がする。その中でも特に、智樹君の優しさは本当の優しさだって。
言葉少なに、分け隔て無く皆を包んでくれる優しさ。その優しさを自分の物にしたいような、そんな気分になった。欲張りなのは分かっている。だけど欲しいんだ。塁も、智樹君も。
「映画、好きだって言ってたよね」
思考回路を分断され「えぇ、あぁ」とおかしな返事をしてしまった。
「借りてるDVDがあるんだ。もし良かったら、明日観て行かない?」
タイトルを訊くと、まだ私が観た事のない物だった。
「きっと君枝ちゃんが観て行くって言ったら、塁も観るって言うだろうから、三人で」
また毛布を掛け直している。
「ねぇ、智樹君寒いの?」
「うん、ちょっとね」
塁は寝返りを打って布団の端っこの方に行ってしまい、私と塁の間には人が一人寝転がれるスペースが空いていた。私は少し目を瞑って考えた。
男の人がこんなに近い距離に寝転がる事に、私は耐えられるだろうか。眠れるだろうか。
それでも智樹君はあの男とは違う。優しい。泡みたいに飛んで行ってしまう優しさじゃない。心から優しい。裏切らない。
「真ん中、おいでよ」
ガバッと音がして、薄暗い中で彼は半身を起こしている。「君枝ちゃん、大丈夫なの?そんなの。だって近いよ?」
ほら、やっぱり優しい。
「大丈夫。塁も智樹君も優しいから、怖くないから」
私はそう言うと、暗がりの中で立ち上がった智樹君を見た。暫くその場を動かない。やっぱりやめておく、そんな事を言うんじゃないかと、その言葉を待つ。
が、彼は敷いていた毛布と掛けていた毛布を二枚をまとめて持ち、塁を乗り越えてこちらへ来た。
毛布をセットしながら「本当に大丈夫?」と再度訊ねるので「大丈夫だって」と私は全然へっちゃらな声で答えたので、彼は毛布を二枚重ねにして身体に掛けて横になった。
「人二人に挟まれてるとやっぱり暖かいなぁ」
そう言ったかと思うと、数分後には規則的な寝息を立てはじめた。寒くて眠れなかったのか。
大の字になって眠る智樹君の横顔を見つめる。塁のぶっきら棒な優しさとは別物の優しさが、彼にはある。毛布から、大きな手が飛び出し、暗闇に白く浮かんでいた。あの手とは違う、優しく大きな手。寒いだろうと思い、その手を毛布の中に仕舞う。
何でだろう。そのままその手を離したくなくなり、私はそのまま目を瞑った。