深海の熱帯魚
23 矢部君枝
森先生にクリスマスプレゼントをあげるという拓美ちゃんに付き合って、駅前の百貨店に買い物に来た。
「結局、何を買う事にしたの?」
私はふらふらと目線を移し、何となく気になる物を手に取りながら彼女に訊ねた。
「うーん、マフラーだったら使えるかなぁと思って。素材の良さそうなマフラーにしようかなって」
紳士雑貨売り場は、クリスマス一色だった。
プレゼント包装されたネクタイやマフラー、手袋がディスプレイされていて、男の人にプレゼントをあげた事なんてあったかなぁと思い返し、途中で止めた。思い出さない方が良いと思ったから。
「これにしようかな」
深緑の、とても上質そうなマフラーを手に取り、近くにあったスーツの首元に持って行って確認している。
「これならスーツとかコートの上でも変じゃないよね」
頬を紅潮させている姿が、恋する女の子という感じがして、羨ましかった。
私はあの合宿以来、何の進展も無い。いつも通り、塁にはいじめられ、智樹君に助けられている毎日だ。時々塁のデッサンのモデルをやったりする事もある。「あの目が描けない」いつもそう言う。
「リハビリ」というお題目で行動してはいないけれど、日常生活で彼らとの接触は問題なくなった。これは夏のリハビリのお陰だろうと思っている。
海岸線を歩いた時の、智樹君の赤面は、忘れられない。あの顔はあれ以来見ていない。
たいして時間も掛からずにお会計を済ませ、買い物は終わってしまった。
「ねぇ、至君たちにもサプライズで何か買わない?」
財布を鞄に仕舞いながらおもむろに言いだしたのは拓美ちゃんで、私は全然考えていなかったので、こういう所で女らしさの差が出るのかも知れないと考える。
「そうだねぇ、いいねぇ。何買おうか?何か案はある?」
二人してエスカレータ乗り場の隅で腕組みをして考えた。あまり値の張る物だと逆に気を遣わせてしまうし、かと言ってお菓子なんてあげても喜ばないだろうし。
と、思いついた事があり、私はパチンと手を叩いた。
「ペンとかどう?実用性重視で。塁はデッサンで使えそうな鉛筆とか」
確かステッドラーとかいう高級鉛筆があるという事を、最近テレビで見た。勿論それを見ていて思い浮かんだのは塁の事。
「いいねぇ、じゃぁ文房具売り場、行ってみようか」
結局、文房具売り場で二千円ぐらいのマルチに使えそうなペンを二人分買い、画材売り場でステッドラーの鉛筆数本とペンホルダーを買った。
「いいんじゃない?これでクリスマス会も怖くないね」
拓美ちゃんは笑った。まぁ彼女は森先生への告白というもう一つ楽しみがあるから。私はサークルだけだから。
クリスマス会はちょうど休日に当たり、その前日に智樹君に頼んで、森先生を研究室から呼び出して貰った。
例の如く私は見えそうで見えない場所から様子を伺っていた。森先生が既婚かどうかも分からないのに「告白する」と意気込んでいた拓美ちゃんが心配で仕方が無かった。
白いドアから森先生が白衣姿で出てきて、後ろ手に扉を閉めるとガチャリと金属音が冷たい廊下に響いた。
拓美ちゃんは一歩踏み出して、手に持っていたプレゼントを渡した。先生は目を丸くして、それでも笑顔でありがとうと言っている風だった。
それから拓美ちゃんは少し俯いて何かを喋り、先生に目を向けた。先生も何かを喋り、次の瞬間、私は息を呑んだ。拓美ちゃんが口元を押さえて泣いている。
すぐに走って行って拓美ちゃんを奪還して来ようかとも思ったが、少し様子を見ていた。森先生は拓美ちゃんの肩に手を置いて、少し揺さぶるようにしている。謝っているんだろうか。
拓美ちゃんは何かに頷いて、とぼとぼと私の方へ戻ってきた。まだ、泣いている。森先生が研究室に戻ったのを見計らって私が姿を現すと、急に走って来て、私に抱き付いてきた。
「ど、どーしたの?」
胸に彼女の重心がかかり、私はよろけた。
「どうしたの?何て言われたの?」
私は森先生は既婚者だと思っていたので、きっと断られたのだろうと思っていた。慰める準備は出来ていた。拓美ちゃんは私の耳元で息を整え、そして顔を上げて私を見た。笑顔だった。
「あのね、付き合ってくれるって」
「えー!」
驚いた。これには驚いた。既婚者じゃなかったのか、森先生。てっきりそうだとばかり。
「良かったねぇ、告白して良かったねぇ」
まだ出し切っていないらしい涙が頬を伝って落ちている。その頬は上気して、上向いている
「え、じゃぁクリスマスは一緒に過ごすとか?」
明日のクリスマスは、森先生と過ごすとなると、色々計画が狂ってくる。
「明日はサークルに行くよ、勿論」
涙を指で拭って、にっこりと笑っている。良かった、本当に良かった。プレゼントをしたらいいと提案した塁もきっと、喜ぶだろう。
こんな時に塁の事を思い出している自分が何だか、恥ずかしかった。
男性と交際をする。自分には無縁の話だ。これから先も、そんな事は起こり得ないと思う。拓美ちゃんは、私には到底できない事をやってのけたのだ。心から羨ましいと思った。