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深海の熱帯魚

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21 矢部君枝




 塁のはしゃぎっぷりは、至君と拓美ちゃんの呑み騒ぎっぷりに匹敵した。
 私に対するリハビリだと言って、私の隣に寝る事になったのは構わないが、とにかくうるさい。
 布団を敷き、すぐに横になった智樹君の腹に向けていきなりダイブをし、身体を翻して今度はまくら投げ。私はリアルにまくら投げをしている人を、生まれて初めて見た。修学旅行でだって見掛けなかった。相手をしている智樹君も智樹君だ。
 やっと静まって、横になった。喋ってるのは酒を呑んでるあの二人だけになると思ったら、今度は真ん中の塁が私の方を向いて「矢部君の寝顔を見れるのは俺様だけだ」と言ったと思ったらバタンと寝返りを打って「矢部君の寝顔が見たいだろう、ワハハ」と笑う。
 明日寝不足で体調が悪くなったら、確実にコイツを海に沈めてやろうと思う。

 それにしても、だ。今日を含め、やっぱりこのサークルで過ごす事で、私は少しずつ、男に対して順応してきているように思う。楽しくて優しい人達に囲まれて、大学生活をエンジョイできていると実感する。少しずつ、少しずつ、消したい過去が消えて行けばいいと思う。
 塁の告白には少し驚いた。私は同性愛を否定しないし、実際私だって、男は嫌いでかっこいい女の子に憧れた事が何度かあった。同性愛ではないと彼は言っていたし、実際それとは少し形は違うのかも知れないけれど、塁はそれを人に素直に言えて、かっこいいと思う。
 あの時握られた手が、温かくて、じーんとして、今まで拒否してきた男の人の手とは全然違う、優しさがあった。いつも私をコケにしているはずの塁の、初めての優しさ。
 私を変えてくれているのは確実に塁。確かに智樹君も至君も、私の「男嫌い」のリハビリには貢献してくれていて、ありがたく思っているけれど、一番の理解者は塁だと、私は思っている。
 ただの優しさだと分かっているのに、そこに心を持って行かれそうになる。塁を好きになっている。やっと寝静まった塁の、静かに寝息を吐くその顔を見ると、胸が高鳴る。それは、男嫌いの胸苦しさでは勿論ない。
 久々に私の元に訪れた「好きな男」への、胸の高鳴り。

 酒盛りしていた二人はいつの間にか、その場で眠ってしまっていた。私は眠りに付けなくて、外していた眼鏡をかけ、二人分のタオルケットを押入れから出すと、二人に掛けてやった。電気を消す。「んんー」と至君が伸びをすると、彼の足元にあった缶が数個、音を立てて倒れた。
「君枝ちゃん?」
 一番奥から智樹君の声がした。私は至君のタオルケットをもう一度直してから「ごめん、起こしちゃった?」と自分の布団に戻った。彼は身体を起こしていた。
「あいつら、そのまま寝ちゃったの?」
 薄暗い部屋の中で、彼にも惨状が薄っすらと見えただろう。
「そうみたい。今タオルケット掛けてた所。ごめんね、起こしちゃって」
 外した眼鏡を枕元に置き、横になると、塁の身体越しに智樹君の上半身がぼやけて見える。
「眠れない?」
 そう声を掛けると「ん、まぁそんな感じ」と答え、彼は伸びをしながら立ち上がった。上に吊ってある電気傘に手がぶつからない様に避けた。
「どこ行くの?」
 私は再度枕元の眼鏡を掛け、彼に訊ねると、首をゴキゴキと鳴らしながら「外。一緒に行く?」と言うので、私も一緒に立ち上がりついて行く事にした。私も何だか、眠れないのだ。あれだけ騒いでおいてさっさと眠りに落ちた塁がちょっと憎い。

「夜の海って、あんまり歩いた事無いや」
 私は砂を蹴りながら、智樹君の斜め後ろを歩いた。ビーチサンダルと足の隙間に砂が入り、ざらざらとして歩きにくい。
「智樹君は?」
「俺は合宿の時ぐらいかな。歩くっつーか、走ってたけど」
 ハハハと二人して笑う。波の音が、行ったり来たりする。何となく濡れていない砂地だけを選んで、浜の端を目指して静かに歩く。


「ねぇ、塁の事、好きなの?」
 穏やかな声で、ただし鋭く切るような問いに、私は戸惑った。
「え?好きって?え?何で?」
 彼の顔は見えない。私は少し足を早めた。追いつこうとしたが、砂地ではなかなか彼に追い付かない。
「さっき玄関んとこで、二人で話してたでしょ。何かあったのかなって」
 波の音で声が大きくなったり小さくなったりするが、きちんと聞こえる。悔しいけれど、全部聞き取れる。彼の質問に対し、私は私自身に問いかけなければ答えが出せなかった。
「まだ、分からない。好きになるかも知れない。でも、塁を好きになっても、塁には好きになって貰えないの」
 今分かる範囲で答えられる事を全て答えた。彼は足をばたりと止めて、こちらへ振り向いた。
「何で?」
 小首をかしげている。
 好きになっても、好きになって貰えない事が分かってるなんて、それは「何で?」って、訊きたくなる状況だ。でも、言えない。これだけは言えない。
「何でかな。分からない。そんな気がする。塁の事を好きになるかも知れないっていうのも、まだ未確定だしね。ほら、男の人苦手だし」
 私が苦笑すると、彼は俯きながら少し笑った。整った顔立ちが、海岸の照明に照らされて映える。また彼は身体を翻して歩き出した。私も後を追う。
「もうさ、俺達位の年齢になってくると、相手が自分を好きになってくれないって分かってたら、恋愛できないよな」
 まさに自分がそういう恋をしてしまうかもしれない私は、何も返事が出来なかった。塁を好きになるかも知れない。好きになって貰えないと分かっている。何故なら塁は、智樹君の事が好きだから。
「だから至って凄いと思うんだ。拓美ちゃんが森って助教の事好きだって分かってても、まだ好き好き言ってんだよ?狂ってる」
 狂ってると言う言葉の響きが何だか可笑しくて、吹き出してしまった。
「狂ってるね、確かに。でも羨ましいけどね。そういうの。一途で」
 海岸の端まで到着した。その先は松林が続いている。民宿は真逆の端にある。今度はそこを目指して歩く。
 また智樹君の斜め後ろを歩いていると、智樹君が急に足を止めた。
「手、繋いで歩こう」
 そう言って長く細いのに筋肉質の腕をこちらへ伸ばしてきた。
 一瞬躊躇った。男だからではない。好きな人がいると言っていた智樹君だから。塁ではなかったから。
「リハビリ」
 私の腕をぐっと掴んだ智樹君は、指を絡めた。そのまま、引っ張られるように砂浜を歩いた。星がいくつも見えて、そのうちの幾つかは海に映るんじゃないかというぐらい、明るく瞬いていて、その明るさが何故だかとても羨ましかった。

「俺も至と同じような恋をする事になるかも知れないんだ」
 手を引きながら、そう言うので「どういう事?」と訊ねる。
 私は智樹君の早いペースについて行くのがやっとで、考える余裕が無かった。
「好きな人が、別の人を好きみたいなんだ。でも諦められなくて」
 智樹君が、あんなに美人な彼女を振ってまで手に入れようとしている、地味な女。握っている手が、急に熱を持つ。
「智樹君、好きな人がいるのに、私なんかと手、繋いでちゃだめだよ」
 智樹君は何も答えない。答えない代わりに、繋いでいた手を更にぎゅっと強く握る。
「智樹君?」
作品名:深海の熱帯魚 作家名:はち